(愛媛県今治市上徳)
明治14年に越智郡上神宮村と徳久村が合併してできた地名。
頓田川左岸のこの地は、伊予国府が存在した場所と推定され、確認調査が行われている。
川沿いの三嶋神社は、鴻(国府)の森といわれ、神亀五年(728)八月二十三日、小千(越智)益躬が勧請した伊予八社の三島宮のうちの一社である。境内には「大神宮さんの岩」と呼ばれる巨岩があり、信仰対象物となっている。境内地は元々秋山氏の館であったが、元禄時代の秋山市助の時、館を頓田川側へ移し、この場所に三嶋神社を移したといわれている。
(関連記事:拝志東村)
父の代まで住んでいた地、愛媛今治。
昨年は年末に訪れたが、今年の年末年始は忙しくなるため、この時期に訪れた。
昼前に到着、いつもならばそのまま墓参に向かうのだが、今回は縁の地「拝志」を先に訪れることとした。
バスで移動、いつも思うのだが、この地の人は老若男女問わず困っている人を見かけると放ってはおけないのか、誰かを助ける光景をよく見かけた。
「拝志」に到着、近くを流れる「頓田川」の氾濫によって明治時代に「町谷」へ引越しするまで我が家が住んでいたところである。
拝志東村には白鳳元年(672)に越智守興により創建された眞光寺(新興寺・新光寺)がある。
南北朝の頃、細川頼春がこの寺に進駐して、新田義貞の甥大館氏明らの「首実験」(敵方の斬った首を見て人物を見極める行為)をしたといわれている。
拝志東村から、「上徳」へ向かう。この辺りは伊予国府跡とされる地である。
そして鎮守三島神社を参拝。ここではお百度参りをする初老の男性と会った。
上徳から「高市」を過ぎ、我が家の墓のある「町谷」へ入る。
私の法号の基となった寺には銀杏の黄色が輝き、その下には我が家の歴史を刻んだ思源碑が立つ。そして墓のある山に登ると、案の定墓碑は草木に埋もれていた。
昔は庭師に頼んでいたというが、今の私にはそんな力も無い。
何時間かかっただろう、ある程度の草を取ってこの一年の感謝と反省を伝えた。
夕刻間近となり、いつもは市街地に泊まるのだが、今回は来島海峡が間近に望める場所に宿泊することとし、瀬戸内の海の幸を味わい、海流の音を聴きながら就寝に至った。
(今治二日目)
昨年は年末に訪れたが、今年の年末年始は忙しくなるため、この時期に訪れた。
昼前に到着、いつもならばそのまま墓参に向かうのだが、今回は縁の地「拝志」を先に訪れることとした。
バスで移動、いつも思うのだが、この地の人は老若男女問わず困っている人を見かけると放ってはおけないのか、誰かを助ける光景をよく見かけた。
「拝志」に到着、近くを流れる「頓田川」の氾濫によって明治時代に「町谷」へ引越しするまで我が家が住んでいたところである。
拝志東村には白鳳元年(672)に越智守興により創建された眞光寺(新興寺・新光寺)がある。
南北朝の頃、細川頼春がこの寺に進駐して、新田義貞の甥大館氏明らの「首実験」(敵方の斬った首を見て人物を見極める行為)をしたといわれている。
拝志東村から、「上徳」へ向かう。この辺りは伊予国府跡とされる地である。
そして鎮守三島神社を参拝。ここではお百度参りをする初老の男性と会った。
上徳から「高市」を過ぎ、我が家の墓のある「町谷」へ入る。
私の法号の基となった寺には銀杏の黄色が輝き、その下には我が家の歴史を刻んだ思源碑が立つ。そして墓のある山に登ると、案の定墓碑は草木に埋もれていた。
昔は庭師に頼んでいたというが、今の私にはそんな力も無い。
何時間かかっただろう、ある程度の草を取ってこの一年の感謝と反省を伝えた。
夕刻間近となり、いつもは市街地に泊まるのだが、今回は来島海峡が間近に望める場所に宿泊することとし、瀬戸内の海の幸を味わい、海流の音を聴きながら就寝に至った。
(今治二日目)
(豊川市足山田町)
元亀初年頃に宝飯郡足山田村に築かれた山城。
本宮連峰向山の尾根上(城山:標高160m)に構えられた城には、出郭や堀切、土塁、一部に石塁がみられ、麓を添うように流れる黒谷川を堀として利用したようである。
また、頂の標柱近くには一石五輪塔が立っている。
城主秋山新九郎は元々武田氏の流れを汲むともいわれる同家家臣で、元亀四年(1573)信玄が野田城で負傷した後、徳川勢に攻められ落城した。(天正三年(1575)宝川合戦の際の説もある)
落城の際の伝説に、黒谷川からの水源を断った「いじめの谷」や、新九郎の娘が敵からの難を逃れた黒谷の沢「おいね隠れ」、武田秋山方の落武者達「城山くずれ」等が伝えられている。
元亀初年頃に宝飯郡足山田村に築かれた山城。
本宮連峰向山の尾根上(城山:標高160m)に構えられた城には、出郭や堀切、土塁、一部に石塁がみられ、麓を添うように流れる黒谷川を堀として利用したようである。
また、頂の標柱近くには一石五輪塔が立っている。
城主秋山新九郎は元々武田氏の流れを汲むともいわれる同家家臣で、元亀四年(1573)信玄が野田城で負傷した後、徳川勢に攻められ落城した。(天正三年(1575)宝川合戦の際の説もある)
落城の際の伝説に、黒谷川からの水源を断った「いじめの谷」や、新九郎の娘が敵からの難を逃れた黒谷の沢「おいね隠れ」、武田秋山方の落武者達「城山くずれ」等が伝えられている。