期限までにはまだ十日あるのだが、次は試験があるためにどうしても区切りをつけたかったからだ。
科目修得課題がようやく終わった。今まで課題は、提出開始日前後に提出し終わっていたのだが、今回はその難解さとその他時間的余裕がなかったために数日遅れてしまった。
期限までにはまだ十日あるのだが、次は試験があるためにどうしても区切りをつけたかったからだ。
期限までにはまだ十日あるのだが、次は試験があるためにどうしても区切りをつけたかったからだ。
(1998年2月7日)
岐阜駅に降り立つのは約8年振りであり、軌道線のうち徹明町から揖斐に向かって乗車するのは初めてである。
岐阜軌道線の新鋭780系電車に乗ってやがて揖斐線内へ、そして伊自良川を越えると西濃平野の北端に差し掛かる。
終点、黒野に到着。ここは以前、野古墳群踏査の予定を立てたところである。が、今回はここで乗り換えて谷汲線へ。
先程の車両と打って変わって昭和初期製造の750形電車がホームに入ってきた。
軌道線用の小さな車体のワンマンカー。木造車に響く釣掛音は、他の乗客共々懐かしさを感じずにはいられない。スピード40~50キロにトロッコ貨車のような乗り心地も不快には思われなかった。
大正15年に谷汲鉄道として開通した同線は、今でもモータリゼーション以前の軽便鉄道の様な趣があり、付近の景色と共に馴染んでいるが、この光景も過去のものとなろうとしている。
長瀬駅を出ると結城駅であるが、平成2年に廃止され、一寸距離を感じて終着駅へ。
駅舎は先年改築され、そこだけ雰囲気が違った感じがする。そして昆虫館が併設されている。
谷汲駅前を暫く歩くと、右手に総門が見えてくる。ここからは門前町であり、商店が50軒程立ち並んでいる。
途中右手には、門前公園及び花時計があり、その上に観光資料館の建物があって谷汲山と谷汲踊りをロボットで紹介する展示館である。
門前町に戻って、更に進むと仁王門が見えてくる。くぐると樹木が鬱蒼としてくる。
山あいのこの地でありながら、参詣者が多い。豊川閣も見習わなくてはならない。だが、ここにも豊川稲荷分霊社が存在した。
華厳寺は延暦十七年(798)に会津の大口氏によって創建され、衰退再興を繰り返し、今に至っている。
本尊は十一面観音で、幾つかの仏像が安置されており、西国三十三箇所第三十三番札所結願の地でもある。
往時は中山道赤坂宿から谷汲街道を経てくる巡礼者で賑わったという。
岐阜駅に降り立つのは約8年振りであり、軌道線のうち徹明町から揖斐に向かって乗車するのは初めてである。
岐阜軌道線の新鋭780系電車に乗ってやがて揖斐線内へ、そして伊自良川を越えると西濃平野の北端に差し掛かる。
終点、黒野に到着。ここは以前、野古墳群踏査の予定を立てたところである。が、今回はここで乗り換えて谷汲線へ。
先程の車両と打って変わって昭和初期製造の750形電車がホームに入ってきた。
軌道線用の小さな車体のワンマンカー。木造車に響く釣掛音は、他の乗客共々懐かしさを感じずにはいられない。スピード40~50キロにトロッコ貨車のような乗り心地も不快には思われなかった。
大正15年に谷汲鉄道として開通した同線は、今でもモータリゼーション以前の軽便鉄道の様な趣があり、付近の景色と共に馴染んでいるが、この光景も過去のものとなろうとしている。
長瀬駅を出ると結城駅であるが、平成2年に廃止され、一寸距離を感じて終着駅へ。
駅舎は先年改築され、そこだけ雰囲気が違った感じがする。そして昆虫館が併設されている。
谷汲駅前を暫く歩くと、右手に総門が見えてくる。ここからは門前町であり、商店が50軒程立ち並んでいる。
途中右手には、門前公園及び花時計があり、その上に観光資料館の建物があって谷汲山と谷汲踊りをロボットで紹介する展示館である。
門前町に戻って、更に進むと仁王門が見えてくる。くぐると樹木が鬱蒼としてくる。
山あいのこの地でありながら、参詣者が多い。豊川閣も見習わなくてはならない。だが、ここにも豊川稲荷分霊社が存在した。
華厳寺は延暦十七年(798)に会津の大口氏によって創建され、衰退再興を繰り返し、今に至っている。
本尊は十一面観音で、幾つかの仏像が安置されており、西国三十三箇所第三十三番札所結願の地でもある。
往時は中山道赤坂宿から谷汲街道を経てくる巡礼者で賑わったという。
(岐阜街道 羽島郡笠松町)
尾張黒田から木曽川を渡ると、笠松の湊町である。
昨年秋、岐阜川原町から南下、川手を経て、笠松湊まで歩いた御鮨街道ウォーキングを思い出す。
美濃守護土岐氏との縁の深い、八幡神社に参った後、町並みを歩く。
そして先回訪れられなかった、歴史民俗資料館に立ち寄る。
川湊を中心に発展してきた商業の歴史等の展示と、企画展「干支亥年展」が開催されていた。
町の歴史を踏まえた上で、改めて町を歩く。
笠松陣屋及び笠松県庁跡、法伝寺、盛泉寺、蓮国寺等の寺院や、奈良津堤の上には、美濃郡代の娘の縁談がないことを憂い、奥州から陽根形の石を取り寄せ祀ったという魂生大明神、へそ塚を巡る。
またその傍らには、駒の句碑があり、
春風や 駒の蹄に 土けぶり 清泉 …と刻まれている。
この句碑は木曽川河畔にあった料亭「四季の里」の庭にあったものを移設したものだという。
(2000年2月11日)
鳳来町では珍しく調査説明会が行われ、早速向かうこととした。
今回の主な検出遺構は「中堀」ということで、城郭構造としては、さほど珍しいものではないが、歴史上比較的大きな史実があり、周知された城跡であるが故に、意義も違ってくるのであろう。
思いのほか多くの見学者や職員も出ていて、すっかり観光的説明会といった感があった。
また、原始遺跡とは違い、史実に基づいて説明を行うため、歴史ガイド的内容であった。
従来の「内堀」内のトレンチによる検出遺構は、排水溝と縄張り石があり、中堀が検出されたところは、推定していたJR飯田線と駐車場の間の地点で、堀というよりは薬研型の溝に近い。
出土品は、一般的な土師系土器の他、漆器片等も見られた。
(写真:1.Ⅲトレンチ内堀 2.Ⅳトレンチ外堀 3.出土品 4.中堀検出遺構)
(関連記事:野牛曲輪 のぼりまつり 鳶ヶ巣山)
鳳来町では珍しく調査説明会が行われ、早速向かうこととした。
今回の主な検出遺構は「中堀」ということで、城郭構造としては、さほど珍しいものではないが、歴史上比較的大きな史実があり、周知された城跡であるが故に、意義も違ってくるのであろう。
思いのほか多くの見学者や職員も出ていて、すっかり観光的説明会といった感があった。
また、原始遺跡とは違い、史実に基づいて説明を行うため、歴史ガイド的内容であった。
従来の「内堀」内のトレンチによる検出遺構は、排水溝と縄張り石があり、中堀が検出されたところは、推定していたJR飯田線と駐車場の間の地点で、堀というよりは薬研型の溝に近い。
出土品は、一般的な土師系土器の他、漆器片等も見られた。
(写真:1.Ⅲトレンチ内堀 2.Ⅳトレンチ外堀 3.出土品 4.中堀検出遺構)
(関連記事:野牛曲輪 のぼりまつり 鳶ヶ巣山)
(愛知県一宮市木曽川町)
岐阜街道が一宮宿から木曽川笠松湊に達する途中にある町。
往古は鎌倉街道が通り、江戸時代には、尾張藩主が岐阜へお成りや鷹狩に向かうために整備された、御成街道が分かれるところでもあった。旧葉栗郡黒田村は、その往来で栄えた。
街道筋には、河野善龍寺があり、弘仁三年(812)傳教大師が創建し、若栗山専修坊と号した。嘉禎元年(1235)同寺二十二世祐道が親鸞に帰依し、浄土真宗に改宗、河野九門徒となったという。そして、天正年間(1573~92)現在地に移転、慶長八年(1603)現在の若栗山河野善龍寺と改称された。
戦国時代には黒田城の城下町でもあった。
明治43年に接する木曽川から命名し、木曽川町となり、平成17年に木曽川町は一宮市に合併閉町、葉栗郡は消滅した。
(河野門徒関連記事:竹鼻 下印食 三宅 円城寺)
岐阜街道が一宮宿から木曽川笠松湊に達する途中にある町。
往古は鎌倉街道が通り、江戸時代には、尾張藩主が岐阜へお成りや鷹狩に向かうために整備された、御成街道が分かれるところでもあった。旧葉栗郡黒田村は、その往来で栄えた。
街道筋には、河野善龍寺があり、弘仁三年(812)傳教大師が創建し、若栗山専修坊と号した。嘉禎元年(1235)同寺二十二世祐道が親鸞に帰依し、浄土真宗に改宗、河野九門徒となったという。そして、天正年間(1573~92)現在地に移転、慶長八年(1603)現在の若栗山河野善龍寺と改称された。
戦国時代には黒田城の城下町でもあった。
明治43年に接する木曽川から命名し、木曽川町となり、平成17年に木曽川町は一宮市に合併閉町、葉栗郡は消滅した。
(河野門徒関連記事:竹鼻 下印食 三宅 円城寺)
(幡豆郡吉良町駮馬(まだらめ))
吉良の町、遠くに西尾が見渡せる丘陵に築かれた城であり、本丸、二の丸、三の丸及び帯曲輪を配する。
本丸北側には櫓台跡があり、二の丸跡には建長年間(1249~55)に勧請された八幡社が建つ。
平成4年に城門、物見櫓が模擬再現され、史跡公園として整備された。
三河守護となった足利義氏は、承久三年(1221)西条城(西尾城の前身)を築き、その後義氏の長男長氏に西条城を、三男義継に東条城を構えさせ、義氏は次男泰氏とともに下野足利に帰った。
以後、この地の足利氏は吉良氏と改姓し、この地を支配する。
応仁の乱の際、西条吉良氏は細川氏、東条吉良氏は山名氏にそれぞれ属し、東条吉良五代義藤は敗れた。
義藤の孫持広の代に西条家より義尭次男義安を嗣子とし、両家の関係は修復される。
永禄四年(1561)義安弟義昭のとき、松平元康に攻められ降伏するも、三河一向一揆を指揮したため、永禄七年(1564)に再び攻められ、義昭は近江国に転じた。
そして義安の子義定が家康との従兄弟関係により召し出され、岡山村に旗本吉良陣屋を築いた。(高家吉良家、吉良上野介義央の祖)
永禄七年義昭追放後は、松平氏が入城する。
元来吉良氏臣で、後に松平氏に属し東条城攻めにも参加した松井忠次が、妹を青野松平家忠茂に嫁がせ、後に東条松平家が成立したともいわれている。
そして忠次は天正三年(1575)の乗本砦攻め参戦、諏訪原城守備等それら功により松平姓を名乗り、東条松平家の重臣となったという。
その松井忠次改め松平康親は城内に法応寺を創立、昭和30年頃まで存在していた。その康親の墓が、城跡の近くに存在する。
天正十八年(1590)松平忠吉の代、家康の関東移封に伴って武蔵忍に移封、東条城は廃城となった。
吉良の町、遠くに西尾が見渡せる丘陵に築かれた城であり、本丸、二の丸、三の丸及び帯曲輪を配する。
本丸北側には櫓台跡があり、二の丸跡には建長年間(1249~55)に勧請された八幡社が建つ。
平成4年に城門、物見櫓が模擬再現され、史跡公園として整備された。
三河守護となった足利義氏は、承久三年(1221)西条城(西尾城の前身)を築き、その後義氏の長男長氏に西条城を、三男義継に東条城を構えさせ、義氏は次男泰氏とともに下野足利に帰った。
以後、この地の足利氏は吉良氏と改姓し、この地を支配する。
応仁の乱の際、西条吉良氏は細川氏、東条吉良氏は山名氏にそれぞれ属し、東条吉良五代義藤は敗れた。
義藤の孫持広の代に西条家より義尭次男義安を嗣子とし、両家の関係は修復される。
永禄四年(1561)義安弟義昭のとき、松平元康に攻められ降伏するも、三河一向一揆を指揮したため、永禄七年(1564)に再び攻められ、義昭は近江国に転じた。
そして義安の子義定が家康との従兄弟関係により召し出され、岡山村に旗本吉良陣屋を築いた。(高家吉良家、吉良上野介義央の祖)
永禄七年義昭追放後は、松平氏が入城する。
元来吉良氏臣で、後に松平氏に属し東条城攻めにも参加した松井忠次が、妹を青野松平家忠茂に嫁がせ、後に東条松平家が成立したともいわれている。
そして忠次は天正三年(1575)の乗本砦攻め参戦、諏訪原城守備等それら功により松平姓を名乗り、東条松平家の重臣となったという。
その松井忠次改め松平康親は城内に法応寺を創立、昭和30年頃まで存在していた。その康親の墓が、城跡の近くに存在する。
天正十八年(1590)松平忠吉の代、家康の関東移封に伴って武蔵忍に移封、東条城は廃城となった。
出先で火災に出くわした。
先走る四季、今日も平年の倍の気温であった。
そして風が強く、空気も乾燥している。
我が家は失火の経験はないが、空襲や町の大火を経験しているため、敏感である。
町内近所でも、2、3年に一度火災が発生し、ヒトゴトではない。
先走る四季、今日も平年の倍の気温であった。
そして風が強く、空気も乾燥している。
我が家は失火の経験はないが、空襲や町の大火を経験しているため、敏感である。
町内近所でも、2、3年に一度火災が発生し、ヒトゴトではない。
(岐阜県羽島郡岐南町)
永禄の頃(1558~69)織田信長臣木下秀吉が築いた城塞で、当時は北側を流れていた木曽川の水運を利用し迅速に築かれた城であることから、一夜城とも称された。
天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際には、北端の城代として伏屋(ふせや)市兵衛が守った。
伏屋氏は、伊那園原伏屋(長野県下伊那郡阿智村)からこの地に移り住んだ武士で、当初は諏訪氏臣であった。
天文十一年(1542)武田晴信が諏訪氏を攻めたことによって諏訪氏臣は離散し、伏屋氏は木曽川沿いのこの地に移り住み、付近を開拓。現在も城跡の東側に鎮座する諏訪神社を勧請し、以後代々この地に住した。
現在も末裔が住み、城跡が記載されている伏屋村絵図を所蔵している。その絵図には、二十二間四方(40m)の郭が四つあり、その一部が現在も残っている。
(関連記事:御成道伏屋 墨俣城)
永禄の頃(1558~69)織田信長臣木下秀吉が築いた城塞で、当時は北側を流れていた木曽川の水運を利用し迅速に築かれた城であることから、一夜城とも称された。
天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際には、北端の城代として伏屋(ふせや)市兵衛が守った。
伏屋氏は、伊那園原伏屋(長野県下伊那郡阿智村)からこの地に移り住んだ武士で、当初は諏訪氏臣であった。
天文十一年(1542)武田晴信が諏訪氏を攻めたことによって諏訪氏臣は離散し、伏屋氏は木曽川沿いのこの地に移り住み、付近を開拓。現在も城跡の東側に鎮座する諏訪神社を勧請し、以後代々この地に住した。
現在も末裔が住み、城跡が記載されている伏屋村絵図を所蔵している。その絵図には、二十二間四方(40m)の郭が四つあり、その一部が現在も残っている。
(関連記事:御成道伏屋 墨俣城)
赤坂宿から西に向かうと緩やかな坂が続き、峠を越えると本宿の間の宿へと達する。
その途中は、長沢松平家のゆかりの地でもある。
沿道には幾つかの寺社が点在し、往時からの雰囲気は残されている。
私が子どもの頃に立ち寄った、街道筋の駄菓子屋はもう無かった。
その途中は、長沢松平家のゆかりの地でもある。
沿道には幾つかの寺社が点在し、往時からの雰囲気は残されている。
私が子どもの頃に立ち寄った、街道筋の駄菓子屋はもう無かった。