(公会堂下駅 上田交通真田傍陽線 長野県上田市)
上田城二の丸堀を見ていると、何やら鉄道路線の痕跡らしき光景が目に入った。これは、昭和2年(1927)上田温泉電気軌道北東線公会堂下駅として開業し、昭和47年(1972)まで存在した、堀割を利用して敷設された鉄道と駅の名残である。
昭和14年(1939)上田電鉄に社名変更され、昭和18年(1943)には合併により上田丸子電鉄に変更、更に昭和44年(1969)からは現在の上田交通となった。また、昭和23年(1948)公会堂下駅は、公園前駅に改称されている。
現在は二の丸堀けやき並木遊歩道となっており、公園前駅のプラットホームと、鉄道を通すために架け替えられた二の丸橋、またそこには配線の名残も見られる。
この後、北大手町を通り、柳町へと向かった。
上田城二の丸堀を見ていると、何やら鉄道路線の痕跡らしき光景が目に入った。これは、昭和2年(1927)上田温泉電気軌道北東線公会堂下駅として開業し、昭和47年(1972)まで存在した、堀割を利用して敷設された鉄道と駅の名残である。
昭和14年(1939)上田電鉄に社名変更され、昭和18年(1943)には合併により上田丸子電鉄に変更、更に昭和44年(1969)からは現在の上田交通となった。また、昭和23年(1948)公会堂下駅は、公園前駅に改称されている。
現在は二の丸堀けやき並木遊歩道となっており、公園前駅のプラットホームと、鉄道を通すために架け替えられた二の丸橋、またそこには配線の名残も見られる。
この後、北大手町を通り、柳町へと向かった。
(宮崎往還 愛知県岡崎市大代町/豊川市千両町)
昭和54年6月に、私は旧額田町へ向かうべく、自転車で何度か峠越えをしたことがある。それ以来、この、そまざか峠は自動車でも越えておらず、27年振りにまた、自転車で越えてみたのであった。
佐奈川上流、上千両の集落を過ぎると、人家は全く無くなる。
細い県道(県道334号千万町豊川線)を上がっていくと、以前には無かった看板、「第二東名建設予定地」が現れた。然し、それ以外は辺りの木々の深さも変わっていないようだった。
比較的真っ直ぐな道路が、大きく曲がり始めるところがある。そこには往古、菟渡庄の名残である、佐奈川「卯足橋」(うたんだ橋)が架かり、そこから新道と旧道及び「雨山道」と分かれる。
旧道は道が狭く急であるが、林道を経由して杣坂峠まで向かったこともあった。
付近の道路切り通しには黒雲母変成岩が時折見られ、中央構造線の地質特質を感じることができる。
新道を上がり、生い茂った道を進んで、標高256mの峠に到着。すぐ手前の治山工事で広くなった場所以外は、辺りの光景は変わっていないようだった。ただ、「杣坂峠バス停」は無くなり、「額田町」の看板も「岡崎市」に変わっていた。そして以前は山々と田畑であった峠の大代側は、工場等が進出し、道路も拡幅され、変化をみせていた。
この後は、乙女川に沿って下り、宮崎地区へ向かった。
昭和54年6月に、私は旧額田町へ向かうべく、自転車で何度か峠越えをしたことがある。それ以来、この、そまざか峠は自動車でも越えておらず、27年振りにまた、自転車で越えてみたのであった。
佐奈川上流、上千両の集落を過ぎると、人家は全く無くなる。
細い県道(県道334号千万町豊川線)を上がっていくと、以前には無かった看板、「第二東名建設予定地」が現れた。然し、それ以外は辺りの木々の深さも変わっていないようだった。
比較的真っ直ぐな道路が、大きく曲がり始めるところがある。そこには往古、菟渡庄の名残である、佐奈川「卯足橋」(うたんだ橋)が架かり、そこから新道と旧道及び「雨山道」と分かれる。
旧道は道が狭く急であるが、林道を経由して杣坂峠まで向かったこともあった。
付近の道路切り通しには黒雲母変成岩が時折見られ、中央構造線の地質特質を感じることができる。
新道を上がり、生い茂った道を進んで、標高256mの峠に到着。すぐ手前の治山工事で広くなった場所以外は、辺りの光景は変わっていないようだった。ただ、「杣坂峠バス停」は無くなり、「額田町」の看板も「岡崎市」に変わっていた。そして以前は山々と田畑であった峠の大代側は、工場等が進出し、道路も拡幅され、変化をみせていた。
この後は、乙女川に沿って下り、宮崎地区へ向かった。