flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

湊川神社

2009-10-16 00:00:49 | いにしえびとの睡

(楠社 楠公さん 神戸市中央区多聞通 旧別格官幣社)
 延元元年(1336)湊川の戦いで足利尊氏に対し敗れた、後醍醐天皇側についた楠木正成はこの地で自害した。その正成墓があったとされるところに、元禄五年(1692)徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸の学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。慶応三年(1867)尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868)明治天皇は大楠公(だいなんこう)の忠義を後世に伝えるため神社を創建するよう命じ、明治5年(1872)湊川神社が創建された。
    

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ささやき橋

2009-10-15 00:00:07 | 民俗・伝承
(密語橋 広島県福山市鞆町)
 の町の一角、山中鹿介首塚の傍に、この橋はある。
 応神天皇時代(210-270)、百済の使節を接待する役目である武内臣和多利が、官妓「江の浦」と毎夜この橋で恋の逢瀬を楽しんでいたが、それが知れてしまい、見せしめのために海に二人は沈められてしまったという。その後、この橋を「ささやき橋」と呼ぶようになったといわれている。
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新潟下町

2009-10-14 00:00:54 | 街道・宿場町

(北陸街道新潟宿 新潟市中央区)
 「みなとぴあ」から西に向かう。信濃川の左岸は古くからの商業地であり、往時の面影を残している。
 付近は総称して「下町」(しもまち)と呼ばれる。その内、古町(ふるまち)周辺はかつては色町であり、今でも飲食業を主に軒を連ねている。
 昭和30年代までは、信濃川から伸びる枝堀が存在したが、今は東堀通や西堀通といった地名だけが残っている。
 
(登録有形文化財 石山味噌醤油味噌蔵 明治39年建造)

(西湊町)

(本町)
  
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闇苅渓谷

2009-10-13 00:00:31 | 水のほとり
(矢作川水系くらがり渓谷 本宮山県立自然公園 愛知県岡崎市石原町)
 凡そ10年振りに訪れる。標高789mの本宮山西側から発する乙川支流男川(おとがわ)がつくり出した渓谷である。付近には、秋に美しさを演出する、樫や楓等の樹木が茂っている。
 
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旧橘小学校煉瓦塀

2009-10-12 00:00:36 | STRUCTURE-構造物残影-
(神戸市中央区橘通)
 神戸市水道局中部庁舎の前に、煉瓦造の塀の一部が残っている。これは、明治33年(1900)に開校した旧橘尋常小学校の塀である。橘小学校は、大正10年(1921)新校舎が完成し、神戸市中心地域の小学校として隆盛を誇ったが、昭和20年(1945)の空襲により校舎が全焼した。その後、再び活気を取り戻すが、昭和末期、市街地人口空洞化により生徒数が激減、近隣の東川崎小学校と入江小学校と共に、昭和63年(1988)に旧湊川貨物駅を再開発した、ハーバーランドに移転統合され、湊小学校となった。
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山中鹿助首塚

2009-10-11 00:00:47 | いにしえびとの睡
(広島県福山市鞆町後地)
 山中鹿之助こと、山中幸盛は天文十四年(1545)出雲国能義郡広瀬村(現島根県安来市)で山中満幸の二男として生まれ、同氏族である尼子氏に仕えていた。
 天正六年(1578)播磨国上月城(兵庫県佐用町)尼子勝久は毛利勢に攻められ自害、尼子氏再興に奔走した幸盛は備中国高梁川阿井の渡し(岡山県高梁市)で吉川元春(毛利元就二男)によって討たれた。そして、鞆の地に毛利輝元を頼ってきた足利義昭と共に幸盛の首実検をし、この地に首塚として葬られた。
 鹿介、二十二歳のときに尼子氏御家再興のために月に祈った「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」は有名である。
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旧新潟税関

2009-10-10 00:00:20 | 木のたてもの
(新潟市中央区柳島町 国指定重要文化財)
 明治元年(1869)修好通商条約により新潟港が開港し、翌年「新潟運上所」として開設されたのが始まりであり、この庁舎はその当時に建造されたものである。そして、明治6年(1874)新潟税関に改称され、明治35年(1902)横浜税関新潟支署となった。
 庁舎建物は、木造平屋塔屋付、床面積398㎡である。昭和39年(1964)新潟地震を機に移転計画が持ち上がり、昭和41年(1966)まで税関支署として使われた後、税関は中央埠頭に移転、旧税関建物は昭和45年(1971)解体修理が施された。
      

(保税倉庫(石庫:いしぐら)床面積330㎡,木造石張昭和57年復原)
  
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台風一過

2009-10-09 00:00:10 | ご近所漫ろ歩き
 ここ10年で最大の暴風といわれた台風18号が上陸し、一時は伊勢湾台風の再来かと言われたが、その後の防災設備の向上等によって、最悪の被害は免れた。
 我が家も外壁が剥がれる等の被害は出たものの、大きな被害はなかった。然し、近所を見てみると、台風の進路に近かったためか、大きな被害が出ているのが分かった。天然記念物に指定されている楠の木も枝が折れていた。
     

 被害状況を見ていると、10年前の台風18号時に発生した豊川竜巻を思い出す。
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light up etc.in KOBE HARBORLAND 2009

2009-10-08 00:00:19 | illuminated
(神戸市中央区)
 三年振りに訪れるが、この港町神戸でさえ、商業に陰りを見せていた。


(関連記事:KOBE HARBORLAND 2006 KOBE LUMINARIE
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鞆の浦

2009-10-07 00:00:14 | 海道・みなと

(鞆の津 瀬戸内海国立公園 国指定名勝 都市景観100選 美しい日本の歴史的風土100選73番 広島県福山市鞆町)
 のまちから再び海岸に出てみる。沼隈半島の先端で瀬戸内海の海の幸が豊富であり、古来から風待ち、潮待ち港であったこの地には、人々が集う要件が多かった。港には江戸時代の常夜灯、雁木(がんぎ:船着場の階段)、波止場、焚場(船修理場所)、船番所跡が残っており貴重である。
(とうろどう)
 また、慶応三年(1867)瀬戸内海六島(笠岡市)で紀州藩の軍艦名光丸と大洲藩の蒸気船いろは丸が衝突、名光丸は、いろは丸を鞆港へ曳航(えいこう)しようとしたが、いろは丸は宇治島沖で沈没した。この際、いろは丸に乗っていた海援隊及び坂本龍馬は、この鞆港に上陸し、廻船問屋で数日間身を潜めたという。
(沈没したいろは丸舳先の再現)

 近年では、鞆の浦埋立て架橋計画問題で、景観を損ねるとして反対運動が起きている。
(鞆城跡から)

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旧第四銀行住吉町支店

2009-10-06 00:00:20 | STRUCTURE-構造物残影-
(新潟市中央区柳島町)
 昭和2年(1927)に建設された、RC造二階建、延床面積920㎡の銀行建物であるが、都市計画により道路にかかることになり、みなとぴあ内に新たに構造体を造り、外壁や内装を移築復元したものである。
        
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Peach Liner

2009-10-05 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-
(桃花台新交通 愛知県小牧市)
 平成2年の開業当初から廃止が予想できた第三セクター路線が案の定の結果となり、全長7.4kmに及ぶ高架構造物遺跡を残した。
 桃花台線は乗り換えの不便さが発生するモノレールであり、計画されていた中央線高蔵寺まで繋がっておらず、更に運賃が高い。地下鉄名城線の乗り換え駅である平安通まで向かうには、桃花台東から小牧までの350円と、名鉄運賃計算B区分(営業キロの1.15倍換算)の小牧~上飯田9.8km小牧線の290円、プラス上飯田~平安通0.8kmの一区、名古屋市営地下鉄初乗り200円が加算され、片道18kmの距離の割に840円と高価な運賃がかかる区間であった。桃花台の人口が予想より増えなかったことを赤字運営、廃止の理由にしているが、根本的な原因はこの路線にありそうである。
 廃止後の活用として、ガイドウェイバス及びIMTS(インテリジェント・マルチモード・トランジット・システム:電波磁気誘導バス)等の再利用構想があるが、通常の鉄道規格であって、更に相互乗り入れで利便性を図らなければ結果は同じであろう。公共交通及び鉄道は、沿線人口が多いから敷設するのではなく、路線を敷いて沿線を発展させるのが本来の形ではないだろうか。それには利用されやすい形にしない限り、発展は望めないのである。
 (券売機跡)
(代替バス)
    (折り返しループ)
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神戸元町2009

2009-10-04 00:00:49 | 街道・宿場町
 阪急三宮駅を降り、旧西国街道である元町方面に向けて歩みを進める。2003年に訪れたときと変わらず、人々で賑わっていた。2006年末に訪れた際には、元町神戸駅入口にあった被災ビル「ホテルシェレナ」の本館が解体中であったが、その本館は建て代わり、被害の比較的少なかった西館は補修工事が済み、再生するようであった。
   (旧ホテルシェレナ西館)
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百貫島

2009-10-03 00:00:13 | 海道・みなと
(弁天島 広島県福山市鞆町弁天島)
 仙酔島への渡船の途中に堂宇の建つ小さな島が見える。その堂宇に弁天が祀られているため弁天島と呼ばれ、正保元年(1644)に再建された弁天堂と、文永八年(1271)銘の石塔婆がある。
 百貫島の名の由来に次の伝説がある。
近江国の正道という武士が、広島の厳島神社参詣の途中に鞆に立ち寄り、弁天島近くで太刀を落としてしまった。正道は鞆の住人達に「引き上げてくれた者には銭百貫を与える」と言ったが、住人達はフカ(サメ)のいる海には入りたがらず、引き受ける者はいなかった。正道は、「この地には勇気のある者はいないのか」と罵った。そこで一人の若者が、「鞆の者達を悪し様に言われては、命をかけて取りに行くほかない」と海に入った。然し、太刀を拾い上げた代わりに下半身をフカに食いちぎられ命を落とした。正道はこれを悔み、百貫で十一重の石塔を建て若者を供養したという。その石塔が現在残る、九重の石塔婆であるという。
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みなとぴあ

2009-10-02 00:00:45 | STRUCTURE-構造物残影-
(新潟市中央区柳島町)
 万代島から柳都大橋を渡り対岸に向かう。
 信濃川に面して、新潟市歴史博物館、旧第四銀行住吉町支店旧新潟税関庁舎のある「みなとぴあ」があり、先ず、平成16年に旧新潟市庁舎(RC造三階、延床面積5508㎡)を再現した、歴史博物館を見学した。
         
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