社伝によると、神功皇后摂政十八年(269)三韓征伐の帰路に住吉太神宮に祈って、当国に太神降臨し給う宮処を教え給えと、海辺に茂る藤の木を、本未打ち断ちて海中に投げ入れれば坂島(宇和島)の郷那多(市内住吉町)に着いた。よって、此処に宮居を営み、藤住吉太神宮と称したとある。安永四年(1775)粟島神社と合祀し、現在地に遷座したという。
(愛媛県宇和島市藤江)
社伝によると、神功皇后摂政十八年(269)三韓征伐の帰路に住吉太神宮に祈って、当国に太神降臨し給う宮処を教え給えと、海辺に茂る藤の木を、本未打ち断ちて海中に投げ入れれば坂島(宇和島)の郷那多(市内住吉町)に着いた。よって、此処に宮居を営み、藤住吉太神宮と称したとある。安永四年(1775)粟島神社と合祀し、現在地に遷座したという。
社伝によると、神功皇后摂政十八年(269)三韓征伐の帰路に住吉太神宮に祈って、当国に太神降臨し給う宮処を教え給えと、海辺に茂る藤の木を、本未打ち断ちて海中に投げ入れれば坂島(宇和島)の郷那多(市内住吉町)に着いた。よって、此処に宮居を営み、藤住吉太神宮と称したとある。安永四年(1775)粟島神社と合祀し、現在地に遷座したという。
(沙流川二風谷ダム 北海道沙流郡平取町二風谷)
昭和48年(1973)利水と治水、発電を目的に、沙流川の河口から21km地点にダム建設が計画された。沙流川流域は、アイヌの人たちが多く住み、聖地も存在したため反対運動が起きた。後にアイヌ資料館を開いた萱野茂氏が先頭になって反対して訴訟問題となり、アイヌ民族の存在を広く知らしめることになった。結果、工事は続けられ、堤高32m,堤頂長550m,総貯水量27,100,000 のダムが平成9年に完成した。然し、ダムによる堆積土砂が、通常の二十倍の速さで堆積し、問題となっている。川の名の由来、沙流川はアイヌ語でシシリムカ(砂の流れる川)を意味し、古来よりこの川の特性を表したものであった。
(関連記事:二風谷)
(萱生古墳群 奈良県天理市萱生町)
萱生環濠集落に隣接し、付近の前期古墳の中にある唯一の中期古墳である。全長114m、高さ13mを有し、円筒埴輪が検出されている。その埴輪の焼成窯が継体天皇陵とされる今城塚古墳と同じ大阪府高槻市の新池遺跡とみられるため、第二十六代継体天皇の妃である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)の古墳ではないかという説がある。
萱生環濠集落に隣接し、付近の前期古墳の中にある唯一の中期古墳である。全長114m、高さ13mを有し、円筒埴輪が検出されている。その埴輪の焼成窯が継体天皇陵とされる今城塚古墳と同じ大阪府高槻市の新池遺跡とみられるため、第二十六代継体天皇の妃である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)の古墳ではないかという説がある。
(すかがわ 愛媛県)
北宇和郡鬼北町牛野川の、標高755.2mの泉が森より発し、宇和島湾に注ぐ全長約8kmの二級河川である。昭和7年(1932)に流路の付け替えが行われ、宇和島市和霊中町から現在の和霊公園を経て、市役所北側から宇和島内港に注いでいたものを、 土砂が堆積して船舶の航行に影響する理由から現在の流路になった。
(和霊神社前 御幸橋)
北宇和郡鬼北町牛野川の、標高755.2mの泉が森より発し、宇和島湾に注ぐ全長約8kmの二級河川である。昭和7年(1932)に流路の付け替えが行われ、宇和島市和霊中町から現在の和霊公園を経て、市役所北側から宇和島内港に注いでいたものを、 土砂が堆積して船舶の航行に影響する理由から現在の流路になった。
(和霊神社前 御幸橋)
(北海道沙流郡平取町二風谷)
萱野茂氏がアイヌ語を教える保育園を前提に、二風谷保育所建設を援助した。然し、それが認められず、昭和58年に私費でこども図書館を設置し、地域に開放した。そこでは地域の子どもたちを対象にアイヌ語塾を開き、後にアイヌ語の普及を目指すミニFM局のスタジオが設けられた。
萱野茂氏がアイヌ語を教える保育園を前提に、二風谷保育所建設を援助した。然し、それが認められず、昭和58年に私費でこども図書館を設置し、地域に開放した。そこでは地域の子どもたちを対象にアイヌ語塾を開き、後にアイヌ語の普及を目指すミニFM局のスタジオが設けられた。
(萱生古墳群 奈良県天理市中山町)
中山大塚古墳の北側に位置し、初期の形である細長い前方部を西側に向ける全長110mの前方後円墳である。後円部は果樹畑に、前方部及び周辺は念佛寺の墓地となっている。明治29年(1896)埴製の枕が出土し、その枕の背面の形状が丸みを帯びていることから、割竹形木棺であったことが推測できる。
松江城北側の塩見縄手には、小泉八雲の旧居と銅像がある。小泉八雲(こいずみ やくも)は、新聞記者、英語教師、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家であり、アイルランド人軍医であった父とギリシャ人の母のもとに生まれた。日本に来る前の名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)であった。日本名の「八雲」は、来日し最初に居住した松江市のある、旧国名出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因み名付けたとされる。40歳のときアメリカの出版社の通信員として来日し、日本で英語教師となって松江藩士小泉湊娘、節子と結婚した。その後、熊本、神戸、東京と移り住み、日本文化を紹介する著書を数多く記している。