(愛知県幡豆郡吉良町乙川字西大山 国指定史跡 1994年5月3日)
四年振りに正法寺古墳を訪れる。古墳のある公園は草刈り作業中であったが、四年前に人工に造られた公園も月日が流れ、自然に還っているようだった。また、先回は目にできなかった土師質埴輪が、土砂流出によるものか多数散見できた。
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(東京都世田谷区尾山台 旧無格社)
永承六年(1051)源頼義は、奥州平定に向かう途中、この地に陣を敷いた。その際、雲が八つに分かれて棚引き、源氏の白幡のように見えたことから勝利の際にはこの地に誉田別命(ほむたわけのみこと:応神天皇)を祀り、八幡社を建てることを誓った。康平五年(1063)奥州安部一族を平定し、頼義は陸奥守となり多賀城に入った。そして約束通りこの地に八幡社を創建し、神に勝利を報告し感謝したという伝説がある。また、背後には直径30m,高さ4.5mの造出(祭祀場)付円墳、八幡塚古墳があり、狐塚古墳から移された稲荷社、御岳山古墳から移された御岳社、天慶塚古墳から移された天慶社がそれぞれ祀られている。
(愛知県幡豆郡吉良町新浜・白浜新田 1994年5月3日) 吉良吉田駅から、造成工事が済んだものの家が建てられていない吉良マイタウンを通り、幸田町境から発する二級河川矢崎川河口部に架かる吉田大橋(84m)を渡った。船舶が通るため橋桁が高く設計されているが、道路築堤が被覆されていないことと、両岸の道路袂部が水平角度で橋と接続されていないため土砂流出が起こり、道路と橋の段差が生じ、また橋の欄干の袂も落ち込んでいた。
(浄土宗松高山法生院傳乗寺 東京都世田谷区尾山台)
境内に板碑(鎌倉・室町時代の石製卒塔婆)があることから、古くから庵があったとされるが、寺院としては文禄年間(1592-6)創建とされ、享和二年(1802)塞ノ神の火が移り伽藍焼失。庫裡は同年、本堂は文化五年(1807)に再建されている。五重塔は平成17年の落成である。
(愛知県江南市小折町天王山 1994年4月26日)
富士塚の西250mに位置する「遺跡」である。北・東側が畑、南・西側が宅地となっているが、主体は薮地である。薮の西には天王社の祠があり天王山の由来となっているが、昭和32年(1957)に甕形土器の他、須恵質の円筒、形象埴輪(5世紀末から6世紀中頃)が出土し、遺跡を東側から見ると手前が前方形で、向こう側が後円形をしているような輪郭に見える。古墳であったところを削平したのではないかと推定できるが、前方後円墳と仮定すると富士塚古墳と同じ方向を向いていることになり、古墳であった可能性が高くなる。付近を踏査してみると、北東側から須恵器片が見られたが、それ以外は室町時代まで下る中世陶器片が主体であった。
(東京都大田区田園調布 旧無格社)
丸子川(次太夫堀・六郷用水)沿いの国分寺崖線縁端に鎮座する神社である。建長年間(1249-56)に創建したとされ、天正十八年(1590)の北条氏滅亡後、八王子城主北条氏照臣であった落合某がこの地に庵を結び、主君の冥福を祈ったという。寛永年間(1624-44)落合某の孫、落合弥左衛門がに新たな社殿を造営し、荏原郡上沼部村の鎮守となった。
(愛知県江南市小折町 1994年4月26日)
現状直径60m,高さ6.5mの前方後円墳である。前方部は耕作により失われ原形を留めていないが、埴輪を有している5世紀末の古墳である。天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際、この地に居住していた生駒家長は、織田信雄の命を受け伊勢長島城を守っていたため、小折城生駒屋敷を留守にしており、家長の子利豊はまだ幼く、小折は庶兄右近が小勢で守っていた。徳川家康はこれを気遣い織田信雄と共に生駒屋敷を訪れこの富士塚に登って敵陣豊臣軍を偵察したという。また、天和2年(1682)生駒利勝が塚の上に「富士塚の碑」を建て、この地における生駒氏の武功を記している。 南東側
富士塚の碑
(浄土宗常光山無量光院照善寺 東京都大田区田園調布)
丸子川(六郷用水)沿いにある仏閣である。天正十四年(1586)荏原郡沼部村(1932-大森区田園調布)に草庵が結ばれたのが始まりといい、寛永十六年(1639)に至り、相蓮社廣誉全が改めて開山し、現在の照善寺となった。
元文元年(1763)銘庚申塔
門前の丸子川
(愛知県江南市小折町 1994年4月26日)
豊臣氏臣、後に徳川氏臣であった生駒利豊の隠居屋敷が存在した宝頂山には、高さ190cmの四代家長夫婦五輪塔、五代利豊夫婦石廟、十代周房(ちかふさ)の墓碑があり、家長夫妻の墓は近くの久昌寺にも墓碑として別に存在する。
(愛知県江南市 1994年4月26日)
桜が散り、新緑の季節となった五条川を漫ろ歩いた。五条川は岐阜県多治見市より発し、愛知県甚目寺町で新川に注ぐ延長28kmの一級河川であるが、途中、入鹿池や木津用水等と流出入するため、流量も一定で川幅も狭い。
(愛知県江南市曽本町二子 1994年4月26日)
現地に到着する途中、小田井、西春付近は地下鉄相互乗り入れ完成により変わってきていた。今回は一宮市、江南市、小牧市、岩倉市、大口町の境界線付近を訪れた。岩倉市は昭和57年以来12年振り、小牧市、江南市は平成2年以来4年振りであるが、今回のこの付近を歩くのは初めてである。付近の人々にものを尋ねるとき、年齢の高い人ほどいわゆる名古屋弁が多く現れていた。尾張地方は県外出身者や比較的若い世代の人が多いので、市街地ではそれほど聞かないが、周辺部ではまだまだ使われていた。
現犬山市に入鹿池及び入鹿用水が完成した寛永十年(1633)以降に用水懸かりの新田開発が行われた三ツ淵入鹿原新田を通り、曽本二子山古墳に出た。古墳は公園として整備されていて、墳丘上は草生地となっている。全長60m,高さ7m,横穴式石室の前方後円墳であり、寛永二年(1625)と明治20年(1887)の発掘によって金環、玉類、甲胃、刀、金銅製鏡板、鎖鉸具、轡、須恵器等が出土している。明治20年以前には隣接して2基の円墳が存在し、あわせて二子塚、弁慶塚と呼ばれたという。また、昭和46年(1971)に測量調査、昭和63年(1988)には発掘調査が実施され、二段築成で周濠を持つことが確認された。
(川崎市宮前区馬絹 旧村社)
元々は女体権現と称し、創建時期は不明であるが、元禄時代の古文書に「女体権現社地五反二畝歩」と記載が見える。また、第二次世界大戦時に切り倒されたという境内の松は、源頼朝が松に馬の袖絹を掛けたことから、地名が馬絹になったという伝説がある。祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)であり、神体の神像に嘉永四年(1851)辛亥年九月吉日と記銘されている。明治43年(1910)この女体神社、熊野神社、白山神社、八幡神社、三島神社を合祀し神明神社と改称した。その後、昭和61年(1986)に至り、社殿改築を機に社名を地名をとって馬絹神社と改称した。本殿の背後には富士塚(富士信仰)がある。