日本人初の快挙 ― 二十歳の盲目のピアニスト・辻井伸行さんの充実感を物語ることばが、メディアを通じて大きく伝えられている。
「目は見えなくても、心の目は見えているので満足しています」、は印象的だ。
かつて、『僕は声が見える』という、ドキュメンタリーのテレビ番組を見たことがあったのを思い出した。近畿大学アメフト部に属す二十二歳の西山君(今は二十七歳か)には、聴覚に障害があった。ゲーム中、彼は相手方のレシーバーの目を見て走る。相手選手が、パスを受けるために、一瞬、ボールの方向に目をそらす。その時を見逃さずにパスカットする。見事な集中力だった。
不自由さを越えて、というのは多分間違っているのかもしれない。
何でも見え、聞こえる能力は備わっているのに、私の心の量りの目盛り加減一つで、ふるいにかけて選択しているような気がしてくる。自分の都合一つで、見たり聞いたりしゃべったり。だとしたら、本当に見るべきもの・聞くべきこと、物事の本質からは遠ざかって生きているのだろうか。
ずるいと言われようが、衝撃を和らげるクッションを存在させるのも一つの手。何もかも真正面から受け止める度量もない薄っぺらな胸ではなおさらかもしれない。処世術かしら……セレクティブ・ヒアリング(selective hearing)、セレクティブ・スピーキング(selective speaking)は。我が家の婆さまは聞こえたり聞こえなかったり、自由自在の変貌ぶりなんだけれど。しゃべるだけしゃべって、あとは黙りこくって、これもうまいのよね~。
「透徹」って、大事なことなの?いずれにしても「心の目」・「心の声」、大事にしなくっちゃ。