札幌学院大コミュニティ・カレッジ「誰かに話さずにはいられない 札幌歴史雑学」第2講も興味深いお話満載で、心楽しいひと時だった。札幌の歴史の事実を平易な言葉で、分かり易く説明する和田氏の話術は一級品である。
昨日(11月22日)午後、札幌学院大学のコミュニティ・カレッジ「誰かに話さずにはいられない 札幌歴史雑学」第2講が開講された。講師はもちろん街歩き研究家の和田哲氏である。和田氏は第2講のテーマを「娯楽の祭りの風物詩」と題して、和田氏が収集した数々のエピソードを紹介してくれた。
※ 講義をされる和田哲氏です。
そのエピソードとは…、
◇劇場と歓楽街
◇篠路歌舞伎
◇映画と横丁
◇洋風建築
◇ガラナと北海道
◇札幌まつり
◇大通ビアガーデン
◇盆踊り唄
◇冬のイベント今昔
と多岐にわたった。どれをとっても興味ぶかいのだが、その全てをレポする力は私にはない。何点かに絞ってレポしてみることにする。
まず「篠路歌舞伎」についてだが、今でこそ篠路地区は北区の一部であり、札幌市内ということだが、当時(明治後半)は遠い地であり、札幌中心部では劇場や映画館があり庶民の娯楽も盛んだったが、篠路地区はそれとは無縁だった。そんな農村地区の農業青年の一人に大沼三四郎という青年がいた。大沼は芝居が好きで、周りの青年たちを指導する傍ら、本格的な歌舞伎公演に取り組んだ。評判は上々で、地元はおろか近隣にまで公演に出向くことがあったほど盛んに歌舞伎公演を行ったという。やがて篠路地区に鉄道(札沼線)が通るようになり、歌舞伎熱も終焉したという。現在は、その遺産を引き継ぎ、篠路中央保育園の子どもたちが演ずる「篠路子ども歌舞伎」として今にも受け継がれているそうだ。
実は私は、数年前に集中的に北区探訪を続けた際に、「篠路歌舞伎」の写真や関連資料が残る「烈々布資料館」や「篠路コミュニティーセンター」を訪れたり、大沼三四郎の墓に参ったり、そして歌舞伎が演じられた「烈々布倶楽部」の跡地などを見学したことがあったので、ことさら興味深く説明を聴くことができた。
※ 篠路歌舞伎を今に受け継ぐ「篠路子ども歌舞伎」の一場面です。
続いて「洋風建築」であるが、札幌はお雇い外国人であるアメリカ人が先導して開拓が進んだ関係で洋風建築が盛んに建てられたが、その設計を担ったのはアメリカ人ではなく、代々大工棟梁職の子どもだった安達喜幸という工部省所属の技師だったという。安達は初代の開拓使本庁舎、時計台、北大のモデルバーンの建物、そして明治天皇の宿舎となった「豊平館」と次々と洋風建築の設計を担当した素晴らしい技術者だったという。そうした街並みが映画監督の黒澤明の知るところとなり、ロシアの文豪ドストエフスキーの「白痴」の舞台としてロシアの街並みに似た札幌がそのロケ地に選ばれたという。私もこの映画は観ているが、白黒映画時代にまるで異国で撮った映画のように観ていた記憶がある。
※ 「北海道開拓の村」に再現された初代の「北海道開拓使本庁舎」です。
そしてちょっと笑ってしまったのが「盆踊り唄」の話か?北海道では盆踊りが子どもの部と大人の部の二部制が取られてきたという。その訳であるが、それ以前は特に二部制などは取らず大人も子ども一緒に楽しんでいたという。ところが盆踊りの歌は即興性があり、歌い手が自由に替え歌にして楽しんでいたという。そうすると、北海道の厳しい風土、激しい労働から解き放された盆踊りでは、子どもに聞かせたくないような卑猥な内容が含まれた唄も数多くあったという。それでは子どものためにも良くないと、二部制を取ることとし、江別市の教師が「子ども盆踊り唄」という曲を作り、大人の方は「北海盆唄」が主流になったということだ。
なお、「北海盆唄」の方は、あの往年のお笑いグループ「ドリフターズ」がテレビの「8時だヨ!全員集合」のオープニング曲に使われていたことで知られている。
※ 北海盆踊り発祥の地とされる三笠市の盆踊りは今も北海道内では最も盛んに行われていて、和田氏もぜひ一度体験してみてください、とお話された。
いや~、あれもこれも紹介したいが、それではこのブログがいつ終わるとも言えないほど長くなってします。涙を呑んで(?)今回はこの辺にします。
次回、最終回となる来週も楽しみである。