私のブログ誕生日は2006年5月6日である。しかし、私としては2008年1月14日をブログ記念日とする思いが強い。というのも、2008年の1月14日から今日まで一日も欠かさず連続投稿を続けているからである。以来13年の月日が経った…。
私がブログを始めてから16年が経過しようとしている。2006年5月というと、私が退職する1年前だった。当時はまだ毎日投稿するというスタイルではなく、話題ができた時に投稿するという形で、2006年5月は12日、6月は11日、7月は10日ほど投稿するという程度だった。2006年、2007年はそうした形での投稿が続いた。
そうした中、他のブログを拝見すると連日投稿をしているブログが目に止まった。それを見て「私も連日投稿を目ざそう!」と決心したのが2008年の1月14日だった。
以来、内容はともかくとして私は連日投稿を唯一の目標として今日までブログ投稿を続けてきた。ただ、正確には、2009年11月の13日から16日までの4日間休載している。これは私が突然の体調不良に陥り、立ち上がることもままならなかったことから第二の職場を欠勤しなければならなくなり、やむを得ず休載したものである。
それ以外は、雨が降ろうが、槍が降ろうが内容は度外視して投稿を続けてきた。この間、道外を旅行中はもとより、二度の海外旅行(アメリカ合衆国、ニュージーランド)においても現地から投稿を続けた。
内容は度外視して、と記したが数多い投稿の中にはごく稀に快心の文章を綴ることができたこともあった。そうして振り返った時、まず最初に頭に浮かぶのは2014年12月26日に投稿した「MARUTA ’S Hey Judo (マルタのヘイ ジュード)」という投稿である。
某テレビ局の特集番組と私の体験が見事にシンクロした瞬間を綴ったものである。本日は私のブログ記念日を彩るものとして、その投稿を再掲したいと思います。若干長い文章ですが、お付き合い願いたいと思います。
MARUTA ’S Hey Judo (マルタのヘイ ジュード)
マルタは歌う。「人生は素晴らしい 人生は残酷 でもジュード 自分の人生を信じなさい」と…。ヘイ ジュードの原曲とはまったく違う意味のヘイ ジュードが1960年代末、チェコスロバキアにおいて人々に熱狂的に受け入れられたという。
今年の春だったと記憶している。
NHKTV・BSプレミアムのNKHアーカイブスで「2000 ハイビジョンスペシャル 世紀を刻んだ歌 ヘイ ジュード 革命のシンボルになった名曲」と題する番組が再放送された。
その番組を視聴した私の中に大きな衝撃が走るのを覚えた。そして私の中にある記憶が蘇ったのだった…。
「ヘイジュード」はもちろんあのビートルズの名曲中の名曲である。この曲は、1968年にジョン・レノンと当時の妻・シンシアの破局が決定的になった頃、ジョンの長男ジュリアンを励ますためにメンバーのポール・マッカートニーが作ったとされている曲である。
ところが番組では、当時チェコスロバキア(以後、チェコと呼称します)国内で国民的人気を誇っていたMARUTA KUBISOVA(マルタ・クビジョバ)が原曲とはまったく違った意味の歌詞を付けて歌い、人々から熱狂的に支持されたという。
熱狂的に支持されたわけ(理由)を理解するには当時のチェコがおかれていた状況を説明する必要がある。
第二次世界大戦後、チェコには共産党政権が誕生し、当時のソ連を中心としたいわゆる共産圏の一国としての道を歩んでいた。共産圏国家の常として、西欧の文化を敵視して、人々の自由な表現活動を抑圧していた。
そうした中、1968年チェコの共産党第一書記としてドブチェク氏が登場し「人間の顔をした社会主義」をスローガンに自由改革路線を推し進めた。いわゆる「プラハの春」である。文化人たちはそれまでの抑圧から解き放たれたかのように創作活動に励み、人々はそれを享受していた。
そのようなときに登場したのがマルタ・クビショバだった。
彼女は自分の意に沿わぬ形で歌手となったのだが、その素質を認められ国民的なトップスターとなって活躍していた。当時の彼女の動画を見ると、小悪魔的な美貌とハスキーヴォイスで、人気が出るのが当然という感じで、国民のアイドル的な存在だったようだ。
※ マルタが活躍していたころの写真です。
こうしたチェコの状況を共産圏の盟主であるソ連は見過ごすわけにはいかなかったようだ。1968年8月21日、突如としてソ連軍60万の兵士がチェコの首都プラハに侵攻し、あっと言う間に「プラハの春」は終焉してしまった。
人々の多くは抵抗したものの、圧倒的な力の前にどうすることもできなく、やがてソ連の意向を受けた共産党政権に屈服せざるをえなかったようだ。
しかし、マルタは違った。彼女は“闘う道” を選んだのだ。それは彼女のその後の苦難の道の始まりでもあった。
そうした中でチェコ版「ヘイ ジュード」は産まれた。
1968年10月、マルタはアルバム「ソング・アンド・バラード」のオープニング曲にチェコ国民に勇気と希望を与えたいと、チェコ人だけに分かる暗号のメッセージを歌詞に込めてビートルズの「ヘイ ジュード」をカバーしたのだ。
翌1969年10月にはその「ヘイ ジュード」をシングル・カットして発売するとチェコ史上空前の60万枚を売り上げる大ヒットとなったという。それはやがて発売禁止となってしまうが、地下で密かに歌い継がれたという。
※ 2014年当時のマルタが「ヘイ・ジュードー」を歌っている様子です。
そんな彼女を共産党政権が見逃すはずがなかった。
懸命に闘い続けた彼女だったが、とうとう1970年1月、彼女は音楽界から永久追放されてしまった。
その後の彼女の生活は悲惨の一語だった。歌うことを奪われたマルタは明日の生活にも事欠くような日々が続いたという。そうした厳しい状況の中でも彼女は志を捨てることなく、地下で続く抵抗運動のシンボルであり続けたそうだ。そして、彼女のメッセージである「ヘイ ジュード」も忘れることなく、密かに歌い継がれていったという。
時が流れ、1989年11月10日、東西冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」が民衆によって破壊されるという衝撃的な事件から、わずか一週間後の1989年11月17日、チェコにおいては共産党支配を倒す民社化革命、俗にいう「ビロード革命」が起こったのだった。
その11月17日、民主政権誕生を祝うバツラーフ広場(国会前の広大な広場)に集まった100万の民衆の前に姿を現したマルタは20年ぶりに「ヘイ ジュード」を歌ったという。
それはマルタにとって、そして国民にとって忘れがたい感動の場面だったことだろう…。
さて、私の中にある記憶が蘇ったとは…。
私は1968年6月1日、日本を発ちヨーロッパを彷徨していた。ソ連軍がチェコに侵攻した1968年8月21日にはスウェーデンの片田舎のレストランでアルバイトをしていて、その事件のことを知った。8月、9月とスウェーデンに滞在した後、私は北欧から中欧、南欧へ旅立った。
そして10月17日にはベルリンに入って、「ベルリンの壁」の側に立ち、その無味乾燥な、しかし戦慄を感じさせる壁を呆然と眺めたのだった。
「チェコへ行ってみたい。でも、ソ連軍侵攻から2カ月にも足りていない段階ではとても無理だろうなあ…」と考えていた。ところが、ベルリンのユースホステルで知り合った30代のイギリス人が「2日後にチェコに行くが、お前も一緒に行かないか」と誘ってくれたのだ。断る理由はない。急いで手続きを済ませ、2日後、彼と一緒に東ベルリンから列車でチェコのプラハに向かったのだった。
10月19日、私たちはプラハに着いた。
プラハの街は美しかった。古都然とした街のたたずまいには訪れるものを魅了する美しさがあった。
しかし、街中には銃を携えたソ連兵が闊歩していた。バツラーフ広場の前に建つ国会議事堂の壁には、真新しい弾痕の跡が痛々しかった。
※ 私がプラハを訪れた時は、こうしたビルの壁にソ連軍の砲弾の痕が痛々しく残っていました。
プラハには確か5日間ほど滞在したが、一緒だったイギリス人はちょっと軽薄なところがあり、チェコ人に向かって街中で事件のことを聞き質そうとするのだが、彼らは秘密警察への密告を恐れ誰もが黙して語らなかった。
ところが、私たちが市内のビアホールに入ったときだった。多少酔いが回ったチェコの人たちがようやくその本音を覗かせてくれる場面に立ち会うことができ、彼らの心の底にある怒りと、やるせない哀しみを見た思いだった。
私はプラハで見聞きしたことを自宅あてに絵葉書を書き送っている。その葉書を引っ張り出してみたら、そこには…。
「(前略)今日でチェコのプラハでの滞在は三日になります。プラハはとても美しい街、そして歴史のある街です。チェコ問題から二か 月過ぎた今日、プラハの街は元に復した感があります。ただ街のいたる所に、真新しい弾丸の跡が見え、ソ連兵が我が物顔でかっ歩して いる光景は、直接関係のないボクでさえ怒りを感じます。そしてプラハ市民の心中を思うと耐えられない気持ちです。(後略)」
と記されていた。
私たちがチェコのプラハに滞在した1968年10月、マルタ・クビショバはチェコ国民に勇気と希望を与えたいと「ヘイ ジュード」を含めたアルバムを世に出した時期でもあった。そのことを知ったとき、私の中で彼女の「ヘイ ジュード」はとても普通の歌ではない、特別な歌であることを悟ったのだった。
私が体験したプラハの戒厳令下のような状況の中で、彼女は敢然と抵抗歌「ヘイ ジュード」を世に出したのだと…。マルタの強い意志を感じる「ヘイ ジュード」を私は何度も何度も聴き返した。
ここで彼女が現在歌う姿をYou Tubeからお聴きいただきたい。彼女は1942年生まれだから、今年72歳と高齢である。You Tubeのものはおそらく60歳前後のものではないかと思われるが、若い時のものもいいが、幾多の試練を乗り越えてきた彼女の味のある「ヘイ ジュード」をお聴きいただきたい。
そして、次の詩が「マルタのヘイ ジュード」の全訳である。
ねぇ ジュード 涙があなたをどう変えたの
目がヒリヒリ 涙があなたを冷えさせる
私があなたに贈れるものは少ないけど
あなたは私たちに歌ってくれる
いつもあなたと共にある歌を
ねぇ ジュード
甘いささやきは 一瞬 心地いいけど
それだけじゃないのね
「韻」の終わりがある すべての歌の裏には「陰」があって
私たちに教えてくれる
人生はすばらしい 人生は残酷
でもジュード 自分の人生を信じなさい
人生は私たちに 傷と痛みを与え
時として傷口に塩をすりこみ 杖がおれるほどたたく
人生は私たちをあやつるけど悲しまないで
ジュード あなたには歌がある
みんながそれを歌うと あなたの目が輝く
そしてあなたが静かに 口ずさむだけで
すべての聴衆はあなたにひきつけられる
あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
でもジュード あなたと遠くはなれても
心は あなたのそばに行ける
今 私はなす事もなくあなたの歌を聴く自分を恥じている
神様私を裁いてください
私は あなたのように歌う勇気がない
ジュード あなたは知っている
口がヒリヒリ 石をかむようつらさを
あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
不幸の裏にある「真実」を教えてくれる
NHK・BSは12月14日(日)、先に放送した「世紀を刻んだ歌 ヘイ ジュード 革命のシンボルになった名曲」の番組をリニューアルする形で「冷戦終結25年 ヘイ ジュード 自由への旅」と題して編集を新たにした番組を放送した。
「マルタのヘイ ジュード」は私にとって特別な歌となった…。
私は恥ずかしながら未知でした・・。
『プラハの春』の当時、私は契約社員で警備員をしながら、小説らしき創作の真似事をしていて、
総合月刊雑誌『世界』、『中央公論』を購読していましたので、
プラハがソ連の戦車で占領され、悲惨な実態を学んだりしていました・・。
貴兄は、こうした状況の中、この街に居た・・
まさに歴史の証人のような、とても貴重な体験をされた、
と思い深めた次第です。
私にとって、あのソ連軍進攻直後のチェコのプラハに入ることができたのはとても貴重な体験でしたし、国の行方が人々の思いとは別な方向へ強制される人々の悲しみの表情を目の当たりにしたことは大きな衝撃でした。
そんな思いを残しながらプラハを後にした私にとって、あのプラハの街の片隅で、マルタが懸命に抵抗を続けていたことを知ったことは別の意味で大きな衝撃でした。私が出会った多くのチェコ人が当局からの圧力の前に沈黙せざるを得なかった中で、敢然と立ち向かったマルタというか弱き女性が存在していたことを知った驚きがいかに大きかったか、夢逢人さんにも分かっていただけると思います。
自らの意志を貫き通したマルタに比べ、私はどうしたのだろうと自らに問いかけた時、経済の発展に沸く日本にあって安穏に若き日を送っていたことに気づきます。若き日の甘酸っぱい思い出です。
コメントありがとうございました。
そしてご自身の体験をベースにした記事作りも大いに見習いたいと思っているところです。
ご自分が歩いてかいた汗、関わった人たちの肉声でできているブログ記事は魅力が大きいですから。
それに比べたら、ぼくのブログ記事は引きこもりの寝言みたいなものですね…。(^_^;
そして「マルタのヘイ・ジュード」は、そんな田舎おじさん様の真骨頂ともいうべき記事です!
エッセイ大賞に応募したら、かなりいい線いくんじゃないかと思いますですよ。
私は出ちゃっ太さんのように脳内から文章を産み出すことができませんから、これしか方法がないのです。
「マルタのヘイ・ジュード」は 私も気に入っている一文です。ありがとうございます。