田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

縄文遺跡の価値は何か?

2022-06-10 12:39:53 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 講師は「縄文人の高い精神性が世界に評価された」と胸を張った。昨年度、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録にあたり、その中心の一人とした活躍された講師のお話を聴いた。

 昨日(6月9日)、石狩市の花川北コミュニティーセンターにおいて「いしかり市民カレッジ」の講座が開催された参加した。実はこの講座は6月7日に行われた縄文遺跡群の現地見学の前に行われる予定だった事前講座が、講師の都合で事後に行われることになった講座だった。

 講師は北海道の縄文世界遺産推進室特別研究員阿部千春氏「縄文遺跡群は世界遺産としてどのような価値があるのか」と題して講演された。

 阿部氏はまず、縄文文化の特色について触れられた。縄文文化とは、「日本列島に多様な自然環境のなかで、漁労・狩猟・採集を生業として定住生活を実現し、1万年以上も大きな争いもなく存続した先史文化である」とされた。他の文明が農耕を主とすることによって定住生活を実現させたのに対して、古の日本では多様な生物に恵まれたこともあり、世界にも類を見ない形で定住生活を実現させたということが言えるようだ。

          

          ※ 講演をされた阿部千春氏です。

 縄文文化の特徴の一つとして「土偶」の存在がある。この「土偶」は縄文時代の始まりから終焉に至るまで作り続けられ、そのほとんどが壊れた状態で出土しているということだ。さらに「土偶」は潜在的に母性を持った女性像として作られているものが多いという。このことは、土偶づくりは「生」を、それを破壊することは「死」を意味していると阿部氏はいう。さらにそれらは「再生」すると縄文人は信じていたところがあるという。

 阿部氏が興味深いお話を披露してくれた。阿部氏が直接発掘に関わった茅部町(現在の函館市)で「中空土偶」が発見されたが、それをMRIで透視したところ内部は見事な空洞だったことが判明したそうだ。その際に画像を子細に見たところ、身体の各部が離れやすいような構造となっていることが分かったという。このことは、土偶が破壊されやすいように、そしてまた再生しやすいようにという縄文人の思いなのではないかということだった。

        

        ※ 一躍有名となった中空土偶です。(愛称:カックウくんです)

 また、発掘された土器や装飾品からも縄文人の思考が読み取れるという。例えば土器には赤い土器と黒い土器があるそうだ。また、装飾品の一つであるヒスイには白い地の中に碧い斑状のものが広がっているという。あるいは、男性と女性、偶数と奇数、というように縄文人は「二項原理」を意識し、その二項を対立させるのではなく、「二項融合」という考え方をしていたという。言葉を変えていえば、縄文人は全てを受け入れる思考法だったのではないかと思えるのだ。    

 現地見学の際の投稿でも触れたが、縄文人が遺した貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく祭祀場として人だけではなく生きとし生けるものを祀る場であったことが判明している。いや生きとし生けるものだけではなく、縄文人の命を繋いだ生活の道具まで祀ることをしていた可能性があることが分かっている。こうした縄文人のサスティナブル(持続可能性)な考え方が、効率を求め過ぎた現代とリンクしたことが世界遺産登録を後押しした可能性があったと阿部氏は言及した。そして縄文遺跡群が世界遺産に登録されたことにあたって特徴的なことは、何か特異な建造物や、だれか偉人が成し遂げたようなことではなく、ごく一般の人たち(縄文人)が形づくり、遺してきた文化だったという点で特徴があるという点である。

   

           ※ 講座の様子を一枚撮りました。

 私は毎週日曜日のTBS系の「世界遺産」は私の大好きな番組であり、録画して欠かさず視聴している。その「世界遺産」に取り上げられるには絵的に非常に地味で訴求力にかけるかな?と思われるが、逆にそのことが「北海道・北東北の縄文遺跡群」が注目を浴びるキッカケとなるかもしれない。縄文文化……、深いなぁ。ますます嵌まるかもしれない…。


北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈3〉 北黄金貝塚(伊達市)

2022-06-09 14:39:28 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 解説してくれた学芸員の方は強調された。「貝塚はけっしてゴミ捨て場ではない!縄文の人たちにとっては生き物に対する祈りの場であった」と…。小高い丘の上に、二つの貝塚や三棟の竪穴住居が復元展示されていた。

   

   ※ 貝塚や竪穴式住居の復元家屋がある「北黄金貝塚公園」の入口です。

 「北黄金貝塚」は、伊達市の中心部から離れた伊達市北黄金地区の小高い丘の上にあった。貝塚は国道37号線沿いにあるので行きやすい遺跡と言えるかもしれない。

   

   ※ 貝塚のある丘陵の麓にある「北黄金貝塚情報センター」の入口です。

 貝塚の近くにはガイダンス施設である「北黄金貝塚情報センター」があるが、センターには入らずいきなり貝塚を巡ることになった。貝塚は竪穴住居が並ぶところから急坂を息を切らせて上がったところに展開していた。貝塚にはA地点貝塚、B地点貝塚と名称が付されていたが、まずは小さなB地点貝塚に案内された。大きさは15m×15mの円形の貝塚である。北黄金貝塚では最も古い貝塚とされており約6,300年前のものとみられる貝塚だった。主として見られた貝殻は「ハマグリ」だという。ハマグリは暖かい海の産物であることから当時の気温は今より2~3度高かったと推定されているそうだ。

   

   ※ この急坂を上がったところに二つの貝塚がありました。

   

   ※ こちらは最も古いとされるB地点貝塚の全貌です。

   

   ※ B地点貝塚を近接して撮ったものです。

 続いて大規模なA地点貝塚に案内されたが、こちらは 80m×20mの長い楕円形の形をしていた。北黄金貝塚では最大の貝塚だという。貝塚からはハマグリが消え、カキ、ホタテ、ウニなどが発掘されたという。このことからこちらの貝塚は約5,800年前のものと考えられ、気温も現在に近い気温だったと推定されるとのことだった。

   

   ※ 貝塚最大のA地点貝塚の全貌です。

   

   ※ 近寄るとシカの角が散乱していました。貝塚では哺乳類の骨もたくさん見つかったということです。

   

   ※ A地点貝塚で学芸員の説明を聞く参加者たちです。

   

   ※ 下方からA地点貝塚を撮った一枚です。

 このA地点貝塚で重要なのは、14体の縄文人骨が発掘されたこと。また、その他にオットセイ、クジラ、シカなど哺乳動物の骨も発掘されたそうだ。そして人骨の周りからはベンガラを使用した形跡も見られ、貝塚が人間だけではなく全ての生き物にたいする祈りの場であったと推定することができるとされた。

   

   ※ 情報センターに展示してあったものですが、貝塚ではこのように人骨が埋葬されていたそうです。

 北黄金貝塚の一つの特徴として「水場遺構」が現存されているのが大きな特徴である。水場遺構とは、生活で使われた石器など使われなくなった道具を供養した場と考えられるとのことだ。水場遺構の一部は発掘された状態のまま展示されており、目立ったのは物をすりつぶすための「すり石」と「石皿」が壊されたり、使用する面を伏せてあったりしたことから供養した場であると推定したということだった。

   

   ※ 使用した石の道具を叩き壊したり、裏返しして生活道具を祀った「水場遺構」です。

   

  ※ こちらも情報センターに展示されていた「すり石」と「石皿」のセットです。たくさん発掘されたようです。

 最後に北黄金貝塚のことを振り返った時に、私の中で大きな疑問が浮かび上がった。それは北黄金貝塚に建てられていた竪穴住居の復元住居についてである。北黄金貝塚のものは全体が「萱ぶき」だった。ところが先に見た入江貝塚のものは「土ぶき」だったのだ。私は後世のアイヌ民族の建物が「萱ぶき」であるところから、「土ぶき」より「茅ぶき」の方が後世の建物だと考えた。(萱ぶきの方が進んだ建て方)ところが、時代的には北黄金貝塚(約5,500年前)の方が入江貝塚(約4,000年前)より古い時代であるという。これはどう解釈したらよいのか?分からなくなった私は「北黄金貝塚情報センター」に問い合わすことにした。センターでは親切に対応してくれた。結論としては両貝塚ともに真相は分からないまま復元したという。というのも、竪穴住居の跡の形状とか、その上に立てた柱の跡は残っているため特定できるが、その上屋は何も証拠となるものが残っていないため、あくまで想像するしか術がないということだ。そのため両貝塚で異なった想像をしてしまった結果の復元であるとのことだった。但し、回答いただいた学芸員の方のお話では、「萱ぶき」より「土ぶき」の方が寒さを防ぐ意味では優位だということだった。果てして真相は??? 

   

   ※ 貝塚(上方の白いところ)の下方に建てられている竪穴式住居を再現した建物が見えます。

   

   ※ 写真のように三棟が並んで建てられていました。

   

   ※ そのうちの一棟です。

   

   ※ 竪穴式住居の内部を再現した様子です。

 今回、三つの貝塚を見学させていただき、貝塚が単なる食べ物の残骸を捨てるだけの場ではなく、縄文人にとって人をはじめとして命あるもの全てを、はては命を繋ぐために使用した道具までもが祭祀の対象だったことを知ることができた。これからも少しだけ縄文遺跡群に関心をもってみようかな?と考えている。

最後にサービスショットを2枚投稿します。

   

   ※ 朝、中山峠から鮮やかに羊蹄山が望めました。(電線が余計ですが…)

   

   ※ 帰路に休憩した洞爺湖畔です。


北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈1・2〉 入江・高砂貝塚(洞爺湖町)

2022-06-08 18:11:39 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

※ 今回の縄文遺跡巡りを契機にして、できれば世界遺産に認定された北海道・縄文遺跡群の構成遺産となった全17遺跡を全て巡ってみたいという野望を抱いた。実現できるかどうか分からないが、一応シリーズ物としてナンバーを打つことにしたい。なお、私のレポは素人の印象レポであり、専門性はまったく皆無と理解していただきたい。

 入江貝塚と高砂貝塚はとても近距離にあり、歩いて5分ほどの近さだった。両方の貝塚ともに紀元前8,000年から3,300年前のものとみられるが、二つの貝塚の関係性を示す明確な証拠(遺物)は発見されていないということだ。

 昨日、いしかり市民カレッジの講座「世界遺産登録となった北海道北東北の縄文遺跡群」の現地見学は、洞爺湖町と伊達市の三つの遺跡を巡るものだった。私が期待した千歳市の「キウス周堤墓群」を回ることは時間的にも無理だったようだ。そこで昨日の現地見学の様子を二日に分けてレポすることにする。

 私たちはまず洞爺湖町の「入江・高砂貝塚館」を訪れた。そこで学芸員の方からお話を伺ったのだが、縄文時代はいわゆる定住がはじまった時期であったが、定住というと「農耕と牧畜」があって初めて成り立つものと考えられるが、我が国の北方では農耕はまだ伝わっておらず、「漁労、採集、狩猟」をすることによって定住を可能にしていたという。つまり貝塚にはそうしたことを示す貝殻や動物の骨などがたくさん発掘されたそうだ。

   

   ※ 2021年新設の「入江・高砂貝塚館」です。

   

   ※ 説明していただいた学芸員は女性の方でした。

 貝塚館で特徴的だったことは、北海道では棲息していないはずのイノシシの牙で作られたヒトの歯形をした装身具が発掘され、展示されていたことだ。ということは当時から本州との交流はあったというなによりの証拠となる。

   

   ※ イノシシの牙で作った人の歯形の装飾品です。

   

   ※ 入江・高砂貝塚から発掘された他に見られない特色ある発掘物は特別に緋毛せんの上に載せられていました。

 また、レプリカではあったが、入江貝塚から発掘された人骨が展示されていた。その人骨は明らかに異常に細い手足の骨の持ち主だった。それは幼児期に小児麻痺か筋ジストロフィーに罹った人の遺骨だと判明したということだ。

   

   ※ 遺骨のレプリカです。足や腕の骨が明らかに細いのが分かります。(下の遺骨と比べてみてください)

 さらに高砂貝塚では、妊娠し子どもを身ごもった婦人の遺骨が発掘されたが、妊娠40週になる胎児の遺骨も同時展示されていた。なお、遺骨の本物は発掘調査を担当した札幌医科大学に保管されているそうだ。

   

   ※ こちらが母親と胎児の遺骨のレプリカです。

 その後、まず高砂貝塚に案内された。貝塚には当時を連想させるように白い貝殻が地面を埋めていたが、もちろんそれは人為的に現代になって貝殻を撒いたものである。高砂貝塚には円形の小さな貝塚と、長方形の大きな貝塚が再現されていた。その中の円形の貝塚にはところどころに土が盛り上げられていた。説明によると、そこは縄文人の遺体を埋めたお墓だという。そうした箇所が高砂・入江両貝塚で計44ヵ所見つかっているということだった。

   

   ※ 表示が二つの貝塚を表していますが、こちらは高砂貝塚の入口です。

   

   ※ 二つの貝塚が復元されていました。手前の円形と、遠くに白い長く見えるのがもう一つの貝塚です。

   

   ※ 貝塚の中に土が見えるところから人骨が発掘されたそうで、お墓と考えられています。

 続いて高砂貝塚から約500m離れた入江貝塚に向かった。こちらは貝塚跡に貝殻は撒いていなく円形の跡が残っているだけだった。こちらの貝塚には竪穴住居の跡、さらに骨組みだけの竪穴住居、そしてその骨組みに土を被せた「土ぶき」の住居が再現されていた。また、貝塚を立体的に再現した(こちらは本物だという)貝塚トンネルが造られ、貝塚の断面が見られる工夫がされていた。

   

   ※ 入江貝塚の入口です。前方に見えるのは「貝塚トンネル」です。

   

   ※ 貝塚トンネルの内部です。貝塚の断面を見ることができます。(光っているのは照明が反射しています)

   

    ※ 竪穴住居跡の底面を復元したものです。           

   

   ※ 竪穴住居の木組みを再現した様子です。

   

   ※ その木組みの上に土を被せた「土ぶき」の竪穴住居を再現したものです。

 さて、冒頭の疑問であるが学芸員の方にお聞きしても両者の関係性について断定的に語ることはできないという。それは決定的な証拠が発見されていないということであろう。貝塚から人骨が発掘されたことから、貝塚が単なるゴミ捨て場ではなく墓地であり、祭祀の場であったことは確定できても、両貝塚の違いは今のところ断定できないという。8,000年から数千年前のことを僅かな手掛かりを求め、そこから古人の生活を推察する学問が考古学なのだろう。私にとって最も縁遠いと思われていた世界も触れてみると案外ロマンに溢れた面白い世界なのかもしれない。少しだけ関心を持ってみようかな?と思い始めている。(単純!と言うなかれ!)


北区歴史と文化の八十八選巡り №8

2022-06-07 06:10:48 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  今回も前回に続いて北区の中でも西側に位置する歴史と文化の史跡等を巡って歩いた。一日で巡る計画が私のミスで二日間にわたってしまった。そのミストとは?恥ずかしいほどの私のうっかりミスなので公表は差し控えることにする。

※ 本日の私は午前7時から行動を開始して、帰宅するのが午後8時近くになる予定である。その理由は、「いしかり市民カレッジ」の講座に受講申請した「世界遺産登録となった北海道北東北の縄文遺跡群」の現地見学で千歳市、伊達市方面にバスで見学する予定なのだ。本来なら、先に座学を実施して見学先の予習をするのだが、講師の都合でいきなり現地見学ということになり、どこの遺跡を見学するのか、現時点では分かっていないのだ。私の期待としては千歳市、伊達市、洞爺湖町の4ヵ所の遺跡を回ってくれるものと期待している。しかし、今のところは分かっていない。まあ、ミステリーツアーに参加する気持ちで楽しんでこようと思っている。そのため、本日の投稿は昨夜作成したものを本日早朝に投稿することにしました。 ご理解ください。

29〉新川「開基百年記念」碑

 新川「開基百年記念」碑は、新川中央公園内に建てられていた。新川中央公園は比較的大きな公園だったが、碑は公園の南側の入口近くに建っていた。碑は高さ 5~6mほどもあったろうか?とても大きな石碑だった。

   

   ※ 立派な百年碑です。

   

   

   ※ 百年碑を背後から撮ってみました。公園が緑豊かです。

 石碑の裏には次のような碑文が刻まれていた。

 苦節百年 不撓不屈の精神をもって、過酷な自然条件を克服し、新川地区の生生発展の貢献した屯田兵および部有地へ入植した開拓者の偉業を偲び、その功績を顕彰する。開拓に心血を注いだ先人の魂は、我ら新川住民のコ頃に永遠に継承されるであろう 今日の新川地域の栄光と住民の幸せは、我らの一層の協力と親和への努力により、未来へ向かってより輝かしいものとしなければならない ここに新川開基百年を記念し、この碑を建立する。       平成元年(一九八九年)十月二十二日 新川開基百年記念協賛会

 また、傍に立てられていた北区制作の説明板には次のように説明されていた。

 新川地区の開拓は、明治22年頃から屯田兵や一般入植者が定住して本格化した。湿地帯であったことから幾度となく水害に襲われたが、先人はこれを乗り越えて豊かな農耕地帯へと導き、そして現在の住宅地へと発展させた。新川という地名は、物資輸送と水害防止に役立った人工河川「新川」から由来している。この記念碑は、開基百年を記念して平成元年に建立された。

〔住 所〕 北区新川4条14丁目 新川中央公園内

〔訪問日〕 6月4日 

30〉近藤牧場

 近藤牧場は新川中央公園に近いところに位置していたが、辺り一帯は市街化が進み、郊外型店舗が集まり新市街を形成しているような一角で、今なお現役として牧場を経営されているようであった。だからちょっと歴史を感じさせる牧舎やサイロもきっと現役で使われているようで、メンテナンスも十分のように見えた。

   

   ※ 道路向かいから近藤牧場の牧舎全体を撮ってみました。

   

   

   

 牧場の傍に立てられていた説明板には次のように記されていた。

 大正4年(1915年)からこの地で酪農を始めた近藤牧場は、札幌の近郊によく見られた牧場の形態を今に残す数少ないものの一つである。場内にある冬期間の乳牛の飼料を蓄えるサイロ(大正14年建築)は、木軸にコンクリートを打ち込み、表面を下見板張りにしたもので、大変珍しい構造である。 

〔住 所〕 北区新川694番地

〔訪問日〕 6月4日

31〉安春川の水辺と散策路

 私が安春川を訪れるのは初めてではない。おそらくこれまで3~4度訪れているはずである。記録を調べてみると最初に訪れたのは14年間前の2008年6月である。その時私は安春川の印象を次のように記している。

   

   ※ 安春川の水源地(?)です。近くにある下水処理場で高度処理した水を流しているそうです。

   

   ※ その水源地から安春川を眺めたところです。

   

   ※ こちらは水源地とは反対の西端の散策路が始まるところです。

「少し資金を費やし過ぎているのでは」と思われるくらい、見事に整備された散策路です。
 小さな流れの両岸は大小の石で固められ、その脇には鉄平石が敷き詰められた素晴らしい遊歩道が続いています。さらに、ところどころにベンチを配したり、東屋があったりといたれりつくせりの感がします。」

   

   ※ 水辺すべてではありませんが、散策路にはこうした鉄平石が敷かれています。

   

   ※ 途中にはこのような板敷の散策路もありました。

   

    ※ 川幅はけっして広くなく、せせらぎといった感じです。

   

   ※ よく見ると川底も石が敷き詰められていました。

   

   ※ 川辺のいたるところにこうしたベンチが配されています。

   

   ※ また東屋も適度に設置されています。

 今回訪れてみて、その印象は大きくは変わらないが、以前に比べると川の周囲の整備の状況が以前より後退したのではないか?との印象を抱いた。安春川が現在のように整備されたのが1987年(昭和62年)だという。以前に訪れた時は、周辺住民が積極的に川辺の整備をされていたように思えた。しかし今回は…。時代を経て、住民にとっては当たり前の光景となってしまい、住民自らによる整備を忌避する傾向が出て来たとしたら残念なことである。

   

   ※ ちょっと残念な光景でした。実はもっと酷いところもあったのですが…。

  今回、私は1987年に整備されたという約1.4キロの水辺を往復した。水源地(これが特殊な水源池なのだが…。後述)に向かって行きは左岸を、帰りは右岸を歩いたが、途中から右岸の方は遊歩道が無くなってしまい、左岸に移らざるを得なかったのは、取得用地の関係だと思われるが、ちょっと残念なところである。

   

   ※ 川には相当の数のマガモが生息していました。また、川で棲息する鯉もかなりたくさん目撃しました。

   

   ※ 若い女性が二人、川の中に入りザリガニ採りに夢中になっていました。

 安春川は自然にあった川ではなく、農業用水を得るために当時の周辺農民が掘削した川である。そのあたりの経緯について説明板で下記のように説明していた。
 明治23年(1890年)、湿原の地下水位を下げ農業の発展を期すために、屯田兵により開削された「安春川」。その川も、都市化の波により流水が枯渇し、降雨時のみの廃水路と化していたことから、快適な生活環境を創造するため、創成川高度処理水によるせせらぎの復活と、河川敷のオープンスペースを利用した遊歩道の整備、さらには、快適な冬期生活に向けての融雪施設を設置することとし、昭和62年度から事業に着手した。長さ約1.4キロメートルにわたり、遊歩道や親水広場などが整備されており、地域の人たちや子供たちの憩いの場として親しまれている。 

〔住 所〕 北区新琴似5条1丁~10丁目付近

〔訪問日〕  6月6日


 〈32〉新琴似屯田兵屋  ※ 跡地になってしまったために削除された。

   

   ※ 「新琴似ポッポ公園」の表示板には「札幌市北区新琴似1条6丁目」と表示されていましたが…。

 新琴似屯田兵屋については建物が撤去され、跡地となったために削除された、となっていたが、一応跡地を見てみようと現地に赴いた。現地に赴き、辺りを探したのだが新興住宅地となっていて、跡地そのもの見つけることはできなかった。ただ「新琴似1条6丁目」の一角に「新琴似ポッポ公園」があった。もしここが跡地だとしたら何らかの掲示がされているはずであるから、ここではないとしても近くであることは間違いないとして、それ以上の探索は諦めた。

 〔住 所〕 北区新琴似1条6丁目1

 〔探索日〕  6月6日 


NHK朗読&トークイベント「自然を見る」

2022-06-06 11:35:31 | 講演・講義・フォーラム等

 北海道の自然を版画で、あるいは写真や映像で表現する二人の作家の作品をNHK札幌放送会館の8K大画面で観賞する機会を得た。二人の作品からは、いかに北海道が豊かな自然に恵まれているかを再確認させられた。

    

    ※ NHK札幌放送会館前に立てられたイベントの掲示塔です。

 昨日(6月5日)の午前と午後、NHK札幌放送局において午前と午後に開催された二つのイベントに参加する機会を得た。

                    

 午前の部は「朗読イベント」と称して、木版画家の手島圭三郎さんの絵本(木版画)を、札幌を中心に活躍する俳優の斎藤歩さん西田薫さんが朗読するというものだった。イベントは「手島圭三郎 動物たちのものがたり」と題して、手島さんの作品(絵本)三冊が題材として取り上げられた。その三冊とは①「きたきつねのゆめ」、②「しまふくろうのみずうみ」、③「ピチャㇰカムイ」の三作品だった。

     

     

     ※ シマフクロウが羽を広げた図には圧倒されました。

 三つの作品を二人の読み手は、けっして大仰ではなく。むしろ抑揚を抑え気味に朗読するところに魅かれた。彼らの朗読が手島さんの特徴のある木版画と共に北海道の自然の中で営まれている動物の世界に誘ってくれた。手島さんの力強い木彫りのタッチが8K画面に鮮やかに映し出されたが、特にシマフクロウが羽を広げて飛翔する様が大画面いっぱいに映し出された場面には圧倒された。

          

     ※ 斎藤歩さん                    ※ 西田薫さん

 午後の部は「トークイベント」と称して写真家の嶋田忠さんが自ら作品を画面に映し出し、作品にかける思いや、撮影の裏話をお話されたイベントだった。嶋田さんは30年前に関東から千歳に移住して、主として千歳の自然を撮り続けているそうだ。嶋田さんはいわゆる写真と動画(嶋田さんはこれを「映像」と称していたが)の両方の表現手段を使って作品を創っているそうだ。イベントではまず「厳冬 北海道の野鳥~写真家 嶋田正が捉えた千歳の森~」という30分間の映像作品が映し出された。そこでは主として白黒の鮮やかな衣装をまとったヤマセミの生態が余すところなく映し出されていた。

     

     ※ ヤマセミの作品を前にした嶋田忠さん。

 続いて、次には嶋田氏が撮り溜めた写真が画面に打ちしだされ、島田氏があれこれと語ってくれた。そのお話の中のいくつかを紹介すると…。嶋田氏は「日本一写真を撮らない写真家」と言われているそうだ。それはどういうことかというと、嶋田氏は写真にしても、映像にしても、実際にカメラを構える前に十分な時間をかけて準備するタイプなのだと自己を分析された。映し出す画面を構想し、絵コンテを描き、そのうえで撮影に臨むと…。

      

      ※ 今大人気のシマエナガの大きな写真の嶋田さんの作品が壁に掲示されていました。

 さらには次のようなことも話された。写真は短距離の100mのようなもので瞬発力が要請されると言う。対して映像の場合は一本の作品の中に起・承・転・結があってマラソンのように長時間の勝負になると…。

 嶋田さんの写真では、氏が写真家になったキッカケだというアカシヨウビンとカワセミの鮮やかな羽の色が印象的だった。映像で取り上げられたヤマセミも含めて、三種ともに川魚のハンターであるところに共通性があって面白い。きっと彼らには嶋田さんの機微に触れる何かがあるのだろう。

      

      ※ 非常に印象的なシマフクロウ(?)の眼を大写しした写真です。

 最後の質疑応答の中で「世界の野鳥が減少している」ことに触れられた。野鳥が減少しているということは、野鳥の主食でもある昆虫が地球上から減少していることだと嶋田さんは言及された。その原因が何であるかは特定されていないとのことだが、どうやら人間の活動がその背後にあるのでは、と嶋田さんは指摘された。

 嶋田さんが関わってきたNHKの自然番組、「生き物地球紀行」、「ダーウィンが来た!」は私も大好きな番組である。あの番組のような世界がいつまでもあり続けるような地球にしなければならない、と強く感じた一日だった。

※ 掲載している写真は、同時開催されていた展示会で撮影可能なものを私が写して掲載したものですが、一部顔写真などはウェブ上から拝借して掲載しました。                    


札幌市のパークゴルフ場めぐり〈38〉中沼リサイクル団地緑地コ―ス &〈39〉丘珠ゆたか緑地コ―ス

2022-06-05 13:18:29 | 札幌市のパークゴルフ場巡り

 

 〈38〉中沼リサイクル団地緑地コース、〈39〉丘珠ゆたか緑地コースと二つのコ―スを巡ったが、両コースにはある共通点があるように思えた。

〈38〉中沼リサイクル団地緑地コース

 このコースを見つけるのに少々戸惑った。というのも、このコースは主要道から中沼のリサイクル団地への取り付け道路に入ったところにあったからだ。

   

   ※ 向こうに見える建物は「中沼プラスチック選別センター」です。コースは手前の看板のところから細い道を入ったところにありました。

 コースは「中沼プラスチック選別センター」とそれに続くリサイクル関係の工場が立ち並ぶ横に並ぶように設置されていた。

   

   ※ 駐車場がありましたが、未舗装でしたね。

 ところが私が行ったところ、誰一人としてプレイしている人の姿が見当たらなかった。さっそくコースに入ってみたが、プレイする人がいなかった理由が分かったような気がした。コースが荒れ放題で整備されていないのだ。おそらく春先に一度整備したままで、あとは放っておかれたような状態で、フェアウェイに雑草が繁り、コース内にはカラスの姿が目立った。

   

   ※ 芝桜コースの1番ホールです。一見普通の整ったコースに見えるのですが…。

   

   ※ よく見ると、ファアウェイも雑草が伸び放題でした。

   

   ※ フェアウェイ上なのにボールが雑草の中に埋まっています。

 コース自体の設定は素晴らしいコースと私には映った。緑地内には適度に木々が繁り、コースの途中には立派な休憩施設が整っていた。しかし、コースの周りにプレイを楽しむ人々が住む住宅がほとんど目立たないことがプレイをする人がいない原因と思われた。

   

   ※ 一見したところでは、立木も適度に配置されていて、素晴らしいコースに見えたのですが…。

 私はその様子を見て、次のように考えた。この地区にいわば迷惑施設と考えられるリサイクル団地を造成する際に地域住民へのサービスとしてパークゴルフ場を造成したのではないだろうか?などと想像させられた。

   

   ※ コースの途中にはこうした設備も整えられていますが、荒れ放題といった趣が…。

 荒れたコースでは楽しさも半減である。18ホールあったが9ホールをプレイして早々に引き上げた。完成した時には立派なコースだと思われるだけに現状は少し残念だった…。                                         

 《コース概要等》

〔住      所〕東区中沼町45番地

〔コース概要〕・18ホール、パー66 総延長約 590m

〔休      日〕木曜日

〔利用時間〕 8:00~18:00 〔駐車場〕有(約30台)

〔プレイ料金〕無料

〔ティーの用意〕無

〔問い合わせ〕東区土木部 ☎781-3521

〔訪問日&私の成績〕22/06/01   芝ざくらコース 28/33 

 

〈39〉丘珠ゆたか緑地コ―ス

 こちらのコースは丘珠鉄工団地が広がるように横に長く設置されていた。このコースもまた、鉄工団地が造成されると同時に造成されたコースのように私には映った。こちらも私が行った時にはプレイしている人は見当たらなかった。しかし、コースとしては中沼リサイクル団地緑地コースのように荒れてはいず、フェアフェイは一応刈り取られていて、日常的にあるいは周辺住民が利用しているように思えたのだが、果てして?

   

   ※ 駐車場が用意されいるのに一台も停まっていませんでした。

   

   ※ スタート地点の休憩舎ですが、地元クラブなどの掲示などはまったくありませんでした。

 前述したように緑地は横に長く延びているため、コースはA、B2コースが設定されていたが、Aコースで端まで行き、帰りにBコースを折り返してくるというコース設計になっていた。その間、二つの通りが横切っていたのが特徴の一つだろうか?

   

   ※ コースは横に長く、右のコースを前方9ホールまで行き、帰りに左のコースを帰ってくるというコースでした。

   

   ※ このグリー周りは酷い!これでは プレイする気持ちも失せてしまいます。

   

   ※ 横に長く伸びるコースなので、途中2ヵ所ほどこうして道路を横切って前のコースに進みます。

 二つのコースを巡ってみて、札幌のパークゴルフ場は人気のあるコースと、そうでないコースに分別されつつあるのかな?と頭をかすめたのだが、はたして実状はいかに?いろいろなコースを巡っていると、周辺住民の方々が運営に関わっていると思えるコースと、そうではないコースがあるようだ。この日訪れた二つのコースはいずれも住民の方々が運営に関わったり、協力したりしている様子が伺えなかった。この辺りが利用者が少ない原因なのかも?

   

   ※ 帰りに撮った写真ですが、右側は鉄工団地の工場の建物、そして左側は道路に挟まれた狭いところに設置されたコースでした。

《コース概要等》

〔住      所〕東区北丘珠2条~3条3丁目

〔コース概要〕18ホール、パー66 総延長 約 736m

〔休      日〕火曜日

〔利用時間〕 8:00~18:00  〔駐車場〕有(約30台)

〔プレイ料金〕無料

〔ティーの用意〕有

〔問い合わせ〕東区土木部 ☎781-3521

〔訪問日&私の成績〕22/06/01   Aコース 30/33 


自然と幸せの国フィンランドを語る

2022-06-04 11:21:42 | 講演・講義・フォーラム等

 ペッカ・オルパナ駐日フィンランド大使は臆することなく自国礼賛に終始した。それだけ自国を誇りにしていることを強く感じさせた。その誇りは国連調査による国民幸福度ランキングを近年五年連続して世界第一位ということが裏付けているようだった。

   

   ※ 講演をするベッカ駐日フィンランド大使です。

 ペッカ大使は1時間という短い時間の中で「自然と幸せの国 フィンランド」と題して、多岐にわたってフィンランドのことを私たちに紹介してくれた。その冒頭、フィンランドのジェンダーフリーがいかに進んでいるかについて触れた。現在の首相が女性のサンナ・マリン氏であることは、フィンランドのNATO加盟を申請したことを表明した際にメディアに露出したことで私たちも知ることになったが、ペッカ氏によるとフィンランドでは現在首相だけではなく、主要政党5党の党首が全て女性だということなのだ。これにはいささか驚いたが、フィンランドにはしっかりとした裏付けがあったのだ。フィンランドにおいては1906年(日本では明治30年)に性別に関係なく男女平等に選挙権、被選挙権が与えられ、翌1907年には初の女性議員が誕生しているそうだ。そして現在では政界のトップに次々と女性が就任しているという。例えば1990年には国防大臣、1995年には財務大臣、2000年には大統領、2003年には首相がそれぞれ初めて女性が就任したそうだ。このこと一つとっても男性中心の政治の世界から抜け出ていない国とは、国の形そのものに大きな違いがあるのかもしれない。(だからと言って我が国の政治の世界の現状を直ぐに変えるべきなどという拙速さは望んでいないが…)

   

   ※ 現在のフィンランド主要5政党の党首たちです。真ん中がマリン首相です。

 そしてペッカ大使は「幸福度ランキング」について触れた。フィンランド国民は、きれいな空気と新鮮な水がある環境や安定した社会に満足しているという。そして世界でも最も自由な選挙制度や汚職が少ない国であることも誇りに感じているという。ちなみに我が国の幸福度はなんと世界62位だそうだ…。

 さて精神的にフィンランド国民は幸せを感じているということだが、それを裏付ける経済の面はどうかというと、フィンランドの国民一人当たりのGDPは約5万4千ドルで。世界的には第13位に位置している。対する日本は一人当たり役3万9千ドルで第28位のようだ。

 教育についても触れられた。フィンランドがOECDの「学習到達度に関する国際調査」(PISA)において、世界最高ランクに位置していることは有名なことである。そのことに関して、ペッカ大使はフィンランドの教育の現状を次のように話された。平等な教育の機会確保のために、就学前教育から専門学校、大学まで、フィンランドとEUの市民には無償で教育の機会を提供しているという。そして、学習成果の地域格差や社会格差を小さくする努力を重ねているとした。

   

   ※ フィンランドでは1940年代から給食費が無料ということです。

 またソーシャルイノベーション(社会変革)については、次のように述べた。フィンランドは世界でも最も革新的な国の一つであり、安定性があり、行政が良く機能していると胸を張った。その背景には社会の様々な課題を解決してきたという。その例の一つとして、1938年(日本では昭和13年)に子どもを産んだ母親に「育児パッケージ制度」が導入されたという。「育児パッケージ」とは、育児に関する全ての物品が収められたもののようだ。このようにフィンランドではいち早く全ての母親に社会保障が行き渡ったという。

   

   ※ 説明では分かりませんでしたが、この図を見るとフィンランドでは子どもが誕生すると、給付金か育児パッケージを受け取るか選択できる制度になっているようです。

 一般に北欧というと、社会保障が行き渡った国が多いというイメージがある。ということは国民が負担する税も相当なものだと思われる。54年前に私がフィンランドを訪れた時にはそのことについてフィンランド人と話す機会はなかったのだが、スウェーデンに滞在していた時に、スウェーデンのサラリーマンとお話する機会があった。税の負担についてお聞きした時、彼は「税の負担が大きいのは大変だが、将来高齢となった時に国がお世話してくれる制度なので不満はない」とのことだった。こうしたことはきっとフィンランド人にも共通のことなのではと推察する。

 大使の話は多岐に渡ったが、先日も触れたように最も感じたことは自国への誇りが言葉の隅々から伺えた。つまり自国に対する肯定感” であろう。

 一般に日本人は自国に対しても、さらには自分自身に対しても “肯定感” が低いと言われている。このことを良く捉えると「まだまだ」あるいは「今以上に」という向上心” の表れと捉えることも出来る。しかし、世界的に見ても我が国は相当に進んだ国であり、ある程度安定した国ではないだろうか?どの国、どの地域でも一定の不満は存在する。その解決を目指しつつも、自国を、自分自身を肯定的に考える必要性を私はペッカ大使の講演から受け取ったのだが…。

         


プロの音を堪能! Kitaraでクラシック

2022-06-03 15:22:19 | ステージ & エンターテイメント

 あの印象的なトランペットのファンファーレが鳴り響くと、疾走感あふれる「ウィリアム・テル序曲」の演奏が始まった。ピッチの速い曲をヴァイオリンの集団が一糸乱れぬ音を紡ぎ出す。さすがにプロフェッショナルの集団である。お馴染みな曲の数々をプロの技で堪能したひと時だった。

        

 昨日(6月2日)午後、札幌コンサートホールKitaraにおいてKitaraでクラシック」と題するコンサートが行われ参加した。このコンサートは札幌交響楽団が主催する、いわばクラシックに縁遠い層の方々への普及活動の一環として行われたコンサートだと解した。何せ入場料が1,000円(65歳以上は500円)という格安料金である。”格安” というワードに弱い私はすかさず入場券を入手した。客層を眺めてみると、札響のねらいは間違っていなかったようだ。普段はクラシックにあまり縁のなさそうな人たちの姿が目立ち、大ホールはほぼ満杯の状況だった。

 演奏する曲の選定も、初心者用に配慮されたものだった。そのラインナップは…。

 ◆ロッシーニ/「ウィリアム・テル」序曲より “スイス軍の行進”

  ◆モーツァルト/「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」より第1楽章

 ◆チャイコフスキー/「白鳥の湖」より“情景” “チャルダッシュ”

 ◆スッペ/「美しきガラテア」序曲

 ◆エルガー「愛の挨拶」

 ◆ドヴォルザーク/スラヴ舞曲第1集より第8番

 ◆ヨハン・シュトラウス2世/ワルツ「美しく青きドナウ」

〈アンコール曲〉◆外山雄三/管楽器のためのラプソディ

以上だったが、私にとって2曲ほど聴き慣れない曲だったが、他はお馴染みの曲が並んでいて楽しくリラックスして聴くことができた。

 コンサートでは、まるで学校における音楽会のように指揮を担当された中田延亮さんがオーケストラを構成する楽器を一つ一つ丁寧に紹介し、その音色を聞かせてくれるという配慮までされた。

       

       ※ 指揮とお話を担当した中田延亮さん

 私にとって演奏されたいずれの曲も心から楽しめたが、その中でも印象深い一曲が選曲されていた。それはエルガー作曲の「愛の挨拶」である。この曲は札響のコンサートマスターを長い間務められたヴァイオリニストである大平まゆみさんが個人コンサートやリサイタルにおいて登場するときに必ず演奏した曲である。大平さんは現在ALSという難病に罹り闘病中で、おそらく彼女の演奏を再び聴くことはできないであろう。そうしたこともあり、彼女の名演奏を偲びながら聴いた一曲だった。

      

      ※ ヴァイオリンを演奏する大平まゆみさん

 私にとって十分に満足するコンサートだったが、時には札響の定期演奏会にも足を運んでみたいと思いつつ、実現できていない。私にはハードルの高い定期演奏会であるが、いつか足を運びたいと思っている。

※ 掲載した写真は全てウェブ上から拝借しました。


フィンランドウィーク カンテレの響きに感動!

2022-06-02 17:20:54 | ステージ & エンターテイメント

 フィンランドの伝統的な楽器カンテレの響きはどこか物悲しく私の耳には届いた。小国故に大国に翻弄され続けてきた民族の哀しみが込められているのだろうか?しかし、現在のフィンランドは国民の幸福度が世界一と、誰もが羨むような小大国である。

          

 5月31日(火)夜、札幌市民交流プラザ3階クリエィティブスタジオにおいて「フィンランドウィーク講演会」が開催され参加した。

 フィンランドウィーク”とは、北海道国際交流・協力総合センターなどが主催し、札幌では初めて開催されるという。フィンランドの特色であるサウナや文化、教育&子育て、スタートアップ、ジェンダー平等など様々な分野について一週間かけて関係者が意見を交わすイベントということだ。

 私が参加した「フィンランドウィーク講演会」は、サイドイベントという位置づけで、いわば市民向けのイベントだったようだ。

   

 イベントの構成は、第一部が「カンテレ&トンコリ&創作ユカラ」のライブ、第二部が「駐日フィンランド大使の講演」の二部構成となっていた。

 カンテレとトンコリは異質の楽器であるが、二つの楽器共にそれぞれの民族に古くから伝わる楽器という共通項で結ばれたようだ。三人のグループ名は「ポロ」と称しているということだった。最初はそれぞれの楽器がソロで演奏された。カンテレはもともと四弦楽器だったというが、現在は進化して奏者の佐藤美津子さんが演奏されたものは39弦のものだという。金属弦の響きは幽玄さを漂わせ、フィンランドの森の奥深くへ導かれるような音色だった。それは同時に哀しみにも似たメロディーに聴こえてきて、フィンランド民族が味わった長く苦しい歴史を思わせる哀しい響きにも聴こえてきた。

   

   ※ カンテレ奏者の佐藤美津子さんです。(プロの演奏者?)

 一方、アイヌ民族に伝わる弦楽器トンコリは今もって四弦楽器である。やはり四弦楽器の限界だろうか?どうしても音が単調に聴こえてくるところが残念だった。そこにアイヌ民族の高い精神性を感受せよ、と言われても音楽的には辛いところがあるというのが正直な感想である。

   

   ※ トンコリの演奏です。(演奏者のお名前は紹介されませんでした)

 二つの楽器に、アイヌ民族に伝わるユカラ(ユーカラ?)を交えたものが披露された。話者はアイヌ語が苦手だということだったが、ユカラ自体はアイヌ語で唱えられた。日本語との共通点は全く無く、理解することは難しかった。アイヌ民族は文字をもたない民族である。できればアイヌ語が再興され、民族の物語がアイヌ語で語り継がれる仕組みを作ってほしいと思う。

   

   ※ 三人のグループ「ポロ」のリーダーで、創作ユカラの話者を務めた方です。

 第二部の駐日フィンランド大使の講演も大変興味深いものだった。その内容もできれば近日中にレポしたいと思うが、お話を聴いていて最も感じたのは、大使ご自身のみならず、きっとフィンランドの人々は “自己肯定感” が日本人と比べるとはるかに強いのではないか、と思われた点である。自己を、自国を肯定することが “国民の幸福度” 世界一に繋がっているのではないか、と思えた講演会だった。近いうちにぜひ講演内容をまとめてみたい。

   

   ※ ペッカ・オルパナ駐日フィンランド大使です。

 ところでフィンランドというと、今から54年前の1968年の6月に私がヨーロッパ・アジアの貧乏旅行に出かけた時に初めて足を踏み入れたヨーロッパの国だったことで印象深い。もっとも正確に言えば私はその前に当時のソ連に入国しているのだが、共産国であったソ連は街全体にどことなく重たい雰囲気が漂っていたのに対して、ソ連からフィンランドに足を踏み入れると、西欧の醸し出す明るい雰囲気に包まれたことが印象深かったのである。私はフィンランドから家に送った手紙の冒頭に次のようにフィンランドの印象を綴っている。

「今日でヘルシンキに着いて4日目。まったくヘルシンキは気に入りました。人は皆親切ですし、街は落ち着きと華やかさを持っているし、女の人はみなきれい。そして夏といってもそれ程暑くなくて、ちょうどよい季節にきました。(後略)」

 実は私はフィンランドには1週間程度しか滞在していないのだが、やはり初めての西欧の国だったことで、ことのほか印象深い国として記憶に残った国だった…。


サッポロ・ジューンがやって来た!

2022-06-01 16:47:23 | その他

 待ちに待っていたサッポロ・ジューン(札幌の6月)がやって来た!一年の中で私が最も恋焦がれる季節の到来だ!さあ、サッポロ・ジューンをどう過ごそうか?あれこれと思いを巡らせているのだが…。

 私がサッポロ・ジューンを意識するようになったのは、次の一文に出会ってからだった。その一文とは…、

 そして、六月がやってきた。いつのまにか春はどこかへ行ってしまい、そのあとに来るはずの梅雨は気配も見せず、まさしく初夏と呼ぶのにふさわしい、緑の季節がやってきた。

 もう、寒くはない。さりとて暑くもない。そう、蒸し暑くないのだ。というよりもむしろ、さわやかな風が吹きわたる至福の気候だった。大気には活動を本格的に始めた植物たちの作り出す、新鮮な酸素が満ちあふれている。街には、ニセアカシアの白い花の甘い香りが漂っている。太陽の光は、すべてのものを輝かせている。          

 その頃、缶ビールと本を持って北海道大学附属植物園へよく行った。大きなカツラの木の下に寝転び、飲んで読んで、昼寝をした。カツラの葉から甘いバニラの香りが降りてくる。これぞ、“サッポロ・ジューン”である。

          

          ※ 作家・林心平のデビュー作です。

 この一文は作家・故立松和平を父に持つ林新平(現在は横松新平のペンネーム)氏の最初の著「札幌はなぜ日本人が住みたい街 №1なのか」(2007年刊)の中に一節である。2007年というと、私が退職して道東から札幌へ転居した年である。つまり私が札幌に転居したと同時に、札幌の6月を意識するようになった著書なのだ。

 高校まで東京で過ごした林氏にとって、札幌の6月は極上の季節に映ったようだ。そして私も札幌での生活を重ねるにつれ、林氏と同じように札幌の6月が極上の季節と意識するようになってきたのだった。

   

   ※ サッポロ・ジューンをイメージする一枚として掲載しました。

 私は6月の声を聞くと、フィールドに導かれ、山を目ざし、山野を巡り、旅にも出かけ、サッポロ・ジューンを、北海道の6月を謳歌した。

 そんな6月がまたやって来たのだ!さあ、今年はどうしょう!? いろいろと思いを巡らせるのだが、思いが定まらない。それは一にも二にも、私自身の体力の衰えを自覚せねばならないということだ。山へ向かおうとする気力は昨年くらいから急に薄れてしまった。長距離のウォーキングも足が向かわなくなりつつある。

 それでもサッポロ・ジューンを謳歌したい、という気持ちだけは人一倍あるのだが…。

 とりあえず、今できることとして、私が今取り組んでいる「札幌市のパークゴルフ場巡り」をなんとか一日でも早く完遂しようと思って、今日も3コースほど回ってきた。さらに6月中にできれば一度遠出もしたいと思っている。自らの体力と相談しながら、この極上の季節を満喫できたらと思っている。

   

   ※ 本日プレイしたパークゴルフ場の一つ「丘珠空港緑地コース」です。