田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り 特別版

2022-10-21 18:26:11 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 「北区歴史と文化の八十八選巡り」をしていて、初めて人と巡り会う幸運に恵まれた。百合が原地区(元の烈々布地区)の生き字引のような存在の中西俊一氏のお話は全てがこの地区を知るうえで参考になった。氏に伺ったお話を思い返したみたい。

中西俊一氏との出会い &〈68〉篠路烈々布郷土資料館

   

 「烈々布会館」の中に設けられている「篠路烈々布郷土資料館」は、「太平会館資料室」と同じように専任の管理者がいないため、地域の方が委嘱されて管理している会館(資料館)である。予め管理されている方に連絡を入れ、管理者の都合が良ければ見学が可能となる仕組みである。

 「北区歴史と文化の八十八選」の全体を管理している北区地域振興課に連絡を入れると、紹介していただいたのが中西俊一さん宅だったというわけである。

   

  ※ ともて93歳には見えず、矍鑠とされていた中西俊一さんは写真をお願いするとマスクを取って応えてくれた。

 約束した時間に「烈々布会館」に向かうと、そこへ中西俊一さんが現れた。中西さんはゆったりとしてはいたが、しっかりとした足取り歩いてこられた。お歳が93歳だという。そして中西さんの先祖は富山県から当地に入植され、中西さんご自身は開拓第4代目だと自己紹介された。

 中西さんは会館の鍵を開錠する前から烈々布地区の歴史を私にレクチャーしてくれた。氏によると、烈々布地区は近隣の屯田や太平地区同様、開拓当時は度々水害に見舞われ、大変な思いをしながら開拓に当たったということだった。そうした中、苦しい開拓生活の癒しの一つとして農村歌舞伎や獅子舞など故郷富山を偲ぶ芸能が地域で盛んになったとうかがった。

会館の中へ(富山天満宮と篠路獅子舞)

 会館に入るまでに10分もお話をしていただいた後に、会館へ導かれた。まず案内されたのが、神棚が祀られた集会室のようなところだった。中西さんは神棚を指して、「故郷の富山の神社から分祀した神棚です」と説明された。それは富山の天満宮から分祀したものだということだったが、昭和41年に篠路神社に合祀されたということだ。

   

   ※ 富山天満宮から分祀されたという神棚が祀られていました。

 続いて大広間に案内されると、そこには獅子舞に使う獅子頭が横たわっていた。実はこの日の私は、ここを訪れる前に篠路の市街地を訪れていた。その訪問先の一つに「篠路神社」があった。神社の前には翌日10月8日(土)に篠路神社の例祭が行われ、篠路獅子舞奉納」があると告知のポスターが貼られていたのだ。「残念!一日違いだった」と思いながら後にしたのだが、実は篠路獅子舞とは、もともと烈々布獅子舞として行われていたものが、先に記したように烈々布地区の天満宮を篠路神社に合祀した際に、獅子舞の方も篠路獅子舞となったそうだ。

   

   

   ※ 翌日(10月8日)の獅子舞奉納に備えて準備されていた獅子舞の用具です。

   

   ※ 立派な獅子頭です。

   

   ※ 部屋には過去の獅子舞奉納の様子を写した写真が掲示されていました。

  後日、中西氏に10月8日の獅子舞のことを尋ねると、「大変賑やかに執り行われ、大成功だった」とお話されていた。

烈々布郷土資料館へ

 会館の2階が「烈々布郷土資料館」だった。資料館は3部屋に分かれていたが、その最初の部屋はやはり翌日の獅子舞の奉納に備え、舞いをする人たち(子どもや若者)の衣装が収納箱から出されて明日の出陣に備えていた。

   

   ※ 2階の資料室もご覧のように翌日の獅子舞奉納の衣装などが準備されていました。

   

   ※ 歴代に使用された過去の獅子頭が展示されていました。

 部屋には昔の青年会の旗や、篠路獅子舞の写真などが掲示されていた。また、その他の部屋にも当時の馬具や農具などが展示されていた。

   

   ※ 青年会活動が盛んだったころに作製された青年会旗だと思われます。

   

    ※ 烈々布歌舞伎の様子を伝える写真も多数展示されていました。   

 中西さんが部屋のカーテンを開き、中西邸の敷地の中に建つ倉庫のような建物を指さして、その建物が往時に篠路歌舞伎の芝居小屋だったものを保存しているということだった。その芝居小屋は回り舞台まで備えたものだったそうだ。保存されているのは、どうやら客席の部分は省いて舞台の部分だけだったように見えた。そのようにして往時を偲ぶところに、当時の人たちがいかに篠路歌舞伎に思いを入れていたのかを窺い知る思いだった。

   

   ※ 中西家の敷地には烈々布歌舞伎の舞台が保存されていました。(外部は補修されているようです)

   

   ※ その舞台の内部が分かる模型を写した写真です。回り舞台が見えます。

 中西さんからはもっともっとたくさんのことをうかがったのだが、簡単にまとめさせてもらった。

   

   ※ 資料室に展示されていた馬具だと思われます。

 その「篠路烈々布郷土資料館」のことだが、北区制作の説明板によると次のように次のように表記されていた。

 烈々布周辺を開拓した先人の労苦をしのび、歴史、文化にふれることができるようにと地域の人たちが作った。昭和57(1982)年の開基百周年記念事業として会館2階に増築し、郷土資料館とした。内部には、子孫が持ち寄った農具、馬具、生活用具などが展示されている。このほか、この地で開拓当時から華やかに演じられていた伝統芸能、篠路獅子舞の資料も展示され、いずれも開拓の貴重な資料として大切に保存されている。

 中西さんは説明板でも触れている地域の開基百年の際は、開基百年記念事業委員長(肩書が正確ではないかもしれない)を務められたそうで、その際発行した記念誌を見せていただいた。また、その縁もあり地域の学校から依頼されて、子ども達に地域の歴史を伝える語り部的なボランティアにも尽力されているとのことだった。

百合が原公園のサイロ

   

   ※ 百合が原公園でお目にかかれる中西家が使用していたサイロです。

 郷土資料館を辞する時、「これから百合が原公園に向かいます」と話すと、中西さんは「実は…」と言って、さらにお話をされた。そのお話によると、現在の百合が原公園は実は中西さん親子が耕作されていた農地だったということなのだ。

 中西家が明治何年に入植されたかについては詳しく伺えなかったが、確か第一陣として入植した明治14(1881)年ではなく、第一陣の方々があまりもの困苦に離農した後に入植したと聞いたように思うが正確でないかもしれない。ただ中西家では開拓第一代となるご夫妻、そして中西氏の祖父にあたる第二代目の中西藤一氏ご夫妻、藤一氏の弟、妹の6人家族で入植されたとお聞きした。

 以来、藤一氏の長男で開拓三代目となる一男氏、そして一男氏の長男で第四代目となる中西俊一氏と続いて、烈々布地区で農業を続けてこられたということだ。そうした中、藤一氏がまだ存命であった1970年半ば、札幌市から「中西家所有の農地一帯を公園化したい」という申し入れがあり、父子で相談の末札幌市の要請に応じることになった、という話を中西さんから伺った。そして、当時中西家で使用していたサイロが公園内に保存されているので、ぜひ見て行ってほしいとのことだった。公園のサイロは、公園内においてはシンボリックな建物の一つとして来園者を迎えている建物で、私も良く知っていた。サイロの近くへ行くと、その経緯について説明している説明板があったので、そこに記されていたことを転写する。

   

   ※ サイロに関する経緯を説明する説明板です。(内容は下記のとおりです)

 このサイロは札幌軟石で造られており、土地の所有者であった中西藤一氏から乳牛の飼料であるデントコーンを貯蔵するために使われていました。百合が原公園を造成する際、かつてこの地域で酪農が行われていた記念としてサイロを残したいという地域の声があつたことから、中西藤一氏のご子息である中西一男氏よりサイロをご寄贈いただき、元の場所から10mほど移動した現在の場所で展望台として1983年に改築しました。展望台からはユリの咲く公園の景色を一望することができましたが、現在は百合が原の景観を象徴する建物として外観を見学できるようにしています。

   

   ※ 違う角度から撮ったサイロです。

 以上、私は思わぬ幸運に恵まれ、烈々布地区の歴史を、百合が原公園の成り立ちを詳しく知ることが出来、とても有意義な「北区歴史と文化の八十八選巡り」になった。とても親切丁寧に説明いただいた中西俊一氏には心からのお礼を述べたい気持である。

   〔住 所〕 北区百合が原11丁目烈々布会館内

   〔訪問日〕 10月7日


北区歴史と文化の八十八選巡り №16

2022-10-20 16:39:06 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 今回は百合が原地区である。この地区は元々太平地区の一部だったそうだが平成10(1998)年に地名が変更されたという。この地区を訪れた際に幸運にもこの地区の生き字引のような人に出会うことができ、さまざまなお話を伺うことが出来た。

65〉さっぽろ花と緑の博覧会モニュメント

   

 「百合が原公園」は昭和61(1986)年に「花と緑の博覧会」の会場となった公園である。毎年何度か訪れている「百合が原公園」であるが、そのモニュメントも見たことがあるような、ないようなという印象だった。モニュメントが設置してある箇所を「緑のセンター」の職員に伺い、さっそくその地へ行ったのだか、なるほど微かに見た記憶のあるモニュメントだった。その傍に説明板があり、園内には4個のモニュメントがあると記され、その位置も示されていた。それに従ってモニュメントを探して歩いだのだが、どうしても4個目を見つけることが出来なかった。帰宅して調べてみると「光る風」というモニュメントが本年6月に老朽化のために撤去されていることを知った。その説明板には次のような説明も記されていた。

 昭和61(1986)年の夏、百合が原公園を舞台にくり広げられた「花と緑の博覧会」を記念して製作されたもので、花と緑と人間のふれあいを美しく表現したモニュメントは、博覧会が終わったあとも、そのまま公園の施設として残されている。

 残った三つのモニュメントは次のとおりである。

【花の輪と和】

   

【北の森たち】

   

【開く花】 

                        

   〔住 所〕北区百合が原210番地百合が原公園内

   〔訪問日〕10月7日

66〉ハルニレの森づくり発祥の碑

   

 同じ「百合が原公園」内の一角に「ハルニレの森」と称して、ハルニレの木に囲まれた一角がある。ハルニレは北海道の野山、特に札幌で目立つ木の一種である。その理由については下記の説明を参照いただきたい。   

 ハルニレ(春楡)はニレ科の落葉高木で、単に“ニレ”と呼ばれたりもするが、英語名の“エルム”の方がよく知られている。ほぼ全国の山地などに分布するが、北海道では平地にも多く、札幌はもともと豊平川の扇状地上に位置するためハルニレが多かった。北海道大学は「エルムの学園」とも呼ばれ、キャンパス内には開校当時からの立派なハルニレの巨木が多く残されていて、芝生との組合せがとりわけ美しい。   

 そのハルニレの木を百合が原公園内に意図的に植樹することで、札幌のシンボリックな木として市民にアピールしようと植樹し、森の造成を意図したようである。「ハルニレの森」の傍には次のような説明板が立っていた。

   

 ハルニレは別名エルムともよばれ、成長すると大木となり、えだ葉をいっぱいに広げ、森の王者といわれるほど風かくがあります。平成2年(1990年)10月に、百合が原公園でハルニレの森記念植樹祭がおこなわれ、未来をつくるこどもたちのせい長にあわせるようにりっぱな森をつくり、受けつがれていくことをねがって200本のハルニレが植えられました。

   

  〔住 所〕北区百合が原210番地百合が原公園内

  〔訪問日〕10月7日  

〈67〉「篠路烈々布開基百年」碑

   

 「百合が原公園」と接するように北隣に建つのが「篠路烈々布会館」である。その会館の横に開基百年碑は建っていた。

   

 「烈々布」とは非常にインパクトのある名であるが、もともとはアイヌ語に由来すると伝えられている。そのことを説明する文書を見つけることができたので紹介したい。

 烈々布……アイヌ語で「ハンノキの多く茂るところ」、「風の強いところ」の意味を持つが、アイヌ語への音訳では無理なところもありその語源については諸説あるようです。しかし、開拓前、近くに流れる伏籠川(ふしこがわ)のほとりに先住民族であるアイヌの人たちが住んでいたことから、語源がアイヌ語であることは間違いないことでしょう。

 さて肝心の百年碑の方であるが、北区を巡っていると各地に立派な百年碑が建造されている。この篠路烈々布地区でも、立派な百年碑が建造されていた。その碑の傍らには北区が制作した次のような説明板が立っていた。

 この地は、明治14(1881)年、福岡県人が報告社を組織して、北海道に渡り開墾した時、明治16(1883)年にその一部の5、6戸が烈々布に入植したのが始まりである。「烈々布」という地名は、アイヌ語に由来したものと言われている。碑は、先人の労苦をしのび、入植以来百年を記念して、昭和57年に建立されたもので、白みかげ張りの高さ1.3メートル、奥行き90センチメートルの台座の上に、幅1.2メートル、高さ75センチメートルの黒みかげ石を建て、本碑としている。正面に「篠路烈々布開基百年」と刻字、この文字は板垣武四札幌市長の揮ごうによる。

                                                                                                                                                                                                                         

   〔住 所〕 北区百合が原11丁目烈々布会館前

   〔訪問日〕 10月7日

〈68〉篠路烈々布郷土資料館

   

 この「篠路烈々布郷土資料館」は、「太平会館資料室」と同じように専任の管理者がいないため、地域の方が委嘱されて管理している会館(資料館)である。予め管理されてい方に連絡を入れ、管理者の都合が良ければ見学が可能となる仕組みである。この日(10月7日)、私は当日になって連絡を入れさせてもらったが幸いにも見学させてもらえるとの回答をいただいた。そうして約束の時間に訪れると、そこに90歳を超えた(確か93歳とおっしゃった)中西俊一さんという矍鑠(かくしゃく)としたお年寄りが現われた。そして懇切丁寧にこの地区の歴史を私に向かって語ってくれた。そうしたこともあり、この「篠路烈々布郷土資料館」は、特別バージョンとして明日レポートすることにしたい。

〈69〉篠路歌舞伎発祥の地

   

    ※ 篠路歌舞伎発祥の地を表すのは、道路端に立っている(写真左端)説明板だけである。

 明日の中西さんのお話にも出てくるのだが、この地区は開拓当初から住民たちの芸能活動が盛んだったようだ。当時の農村青年は苦しい農作業から解放され、歌舞伎や獅子舞などに熱中したようだ。特に「篠路歌舞伎」は名声を博し、札幌圏はもとより、全道各地にまでその名声が及んだという。その発祥の地だということだが、現在は路傍にただ説明板が立っているだけだったが、その説明からも当時の篠路歌舞伎が盛んだった様子が伺える思いがする。 

                                                 

 かつてこの付近一帯が烈々布と呼ばれていたころ、この村の農村青年を中心に歌舞伎が華やかに演じられていた。最盛期には花道や回り舞台をも備えた篠路歌舞伎は、全国の農村歌舞伎のなかでも特異な存在とされている。一流の出し物、傑出した演技で旧篠路村内外にその名をとどろかせた一座は、遠く道内各地へ巡業に乗り出したという記録もある。明治35(1902)年に始まり、昭和9(1934)年に消滅したが、北海道農村芸能史の大きな遺産のひとつである。当時から西へ150メートルの地に、篠路歌舞伎座長として活躍した「花岡信之碑」(本名 大沼三四郎)がある。

  〔住 所〕 北区百合が原9丁目

  〔訪問日〕 10月7日

※ 上記の説明を読んでいて確か「花岡信之碑」を訪れたことがあるなぁ…、と思い出していた。そこで拙ブログを繰っているとありました!今から14年も前の2008年10月10日付の投稿で「花岡信之碑」の写真が掲載されている。興味のある方は覗いてみてください。(こちらをクリックください⇒)


斎藤里奈Torio  in かでるロビーコンサート

2022-10-19 16:45:33 | ステージ & エンターテイメント

 う~ん。おじさんには哀しいかなどうしてもジャズの良さを感得することができないなぁ…。トリオのそれぞれは音楽で生計を立てている素晴らしい技量の持ち主だから素晴らしい演奏に間違いなかったのだが…。

        

 10月18日(火)お昼時、道立道民活動センター(かでる2・7)の展示ホールにおいて定期的に開催されている「かでるロビーコンサート」が開催された。今回は回を重ね第120回目ということだったが、ゲストミュージシャンはベース(コントラバス)の斎藤里奈さんをリーダとする「斎藤里奈Torioの三人で他にピアノとドラムスが加わった三人組だった。短い時間の中でトリオが演奏したのは…

 ◆ジョセフ・コズマ/枯葉

 ◆斎藤里奈/金色の鳥

 ◆エロル・ガーナ―/Misty

 ◆レナード・バーンスタイン/Tonight

の4曲だった。最後にアンコールとして演奏された曲は曲名の紹介がなく、私もまったく聴いたことのない曲だったために、題名を記すことが出来ない。

   

 ジャズには多くのジャンルが存在していることは承知しているが、彼らの演奏はモダンジャズの系統だったのではと思われる。演奏された曲目の中で、「枯葉」と「Tonight」はメロディーを知っているだけに興味深く聴いたのだが…。確かにメロディーが演奏の中で時折り出てはくるのだが、例えば「枯葉」の演奏において曲の大半はメロディーとは違い、曲全体を通して原曲である「枯葉」のテイストが感じられたかといえば、私には??なのだった。斎藤のオリジナルの「金色の鳥」も最初の部分ではいかにも金色らしい煌びやかなメロディーが紡ぎ出されたかな?と思われたのだが、途中からは分からなかった。

 ベースの斎藤がリーダーということだったが、ベースがフィーチャーされる部分は少なく、やはりピアノが全体をリードする形での演奏だったのは三つの楽器の組み合わせではしかたのないところか?

   

 素晴らしい演奏を聴きながら、その良さを感得できないということはかなり悔しいことである。言えることは他の分野の音楽を聴く機会に比べ、その回数が少ないこともその要因の一つと考えられるが、かといってこれから聴く機会もそう多くはないだろうなぁ…。

 


映画 №349 ケアニン ~あなたでよかった~

2022-10-18 15:52:26 | 映画観賞・感想

 新人の介護福祉士の大森圭(戸塚純貴)は小規模介護施設で働くが、自分の仕事に自信が持てなかった。しかし、周囲のスタッフたちの温かな支援を受けながら生き甲斐を見いだし、介護福祉士として生きていこうと決意を新たにする過程を描いた心温まる映画だった…。

  

 10月15日(土)午後、狸小路の「サツゲキ」において厚労省北海道労働局主催の映画会「ケアニン ~あなたでよかった~」を観た。

 映画の冒頭、施設長の工藤博文(小市慢太郎)が「俺たちケアニンは…」と言葉にしたとき、圭は「?」と疑問を呈するが、施設長は「介護福祉士とは、ケアする人間だ。だからケアニンだ」と説明するところから映画は始まる。実際に業界用語ではそのように呼んでいるのだろうか?

   

   ※ 圭(左側手前)が務める小規模介護施設でのスタッフミーティングの様子です。右奥が施設長です。

 圭は高校卒業後、介護福祉の専門学校を卒業し、小規模介護施設に配属となったが認知症の高齢者たちと上手くコミュニケーションが取れずに悩む日々が続く。しかし、工藤を始め、ケアマネの佐藤夏海(松本若菜)など先輩スタッフの助けもあって徐々に自信をつけ始めたところで、認知症を患った星川敬子(水野久美)の担当を任されることになった。 ここからがこの映画の主題である。圭は認知症を患い苦しむ(?)に敬子に寄り添い、敬子の尊厳を傷つけぬように意を払いながら懸命に寄り添うことによって敬子の信頼を得て、敬子を看取るまで介護に打ち込むのだった。敬子が亡くなった後、敬子の孫娘から敬子が生前に書いた「圭さん、ありがとう」というメモが渡された。圭はこれからも介護福祉士として生きていくことを決意するのだった。

 と、介護の現場を知っている人間からは「きれいごと過ぎる」という批判もありそうだが、若干涙もろいところもある私には涙なしには見られなかった映画だった。映画として観た時、その要因は主役の戸塚純貴の純真さが体現されているような演技、それを支えた 小市慢太郎、松本若菜たちベテランの演技陣、そして水野久美の長年にわたって培ってきた映画人として落ち着いた演技、全てがぴたりとはまったキャストによるところが大きいと私は見た。「映画を観て良かった」と心から思えた映画だった。

  

  ※ ケアニンの大森圭(戸塚純貴)と介護される星川敬子(水野久美)の二人です。

 主催した労働局としては、「介護の仕事もやり甲斐のある仕事ですよ」ということを広めたいとする狙いがあったのだと推測される。しかし、伝えられるのは介護福祉の現場の過酷さと給与の安さだという。そのため介護の現場は絶えず人手不足に悩まされているとも聞く。これからは私も含めて高齢者がますます増加の一途を辿るとされている。そのような状況の中、介護の現場が少しでも働きやすくやり甲斐のある現場となり、多くの人が志向するような職場となってほしいと願うばかりなのだが…。


北海道開拓使の洋式建築の特徴

2022-10-17 18:11:58 | 講演・講義・フォーラム等

 私のような門外漢にとってはなんともマニアックな講座に参加した。北海道開拓に多大な貢献をしたアメリカを中心としたお雇い外国人は札幌市を中心としてたくさんの洋式建築を建設した。その特徴についての解説を伺った。

   

 10月14日(金)の夜、北海道開拓使が遺した代表的建造物である「豊平館」において、「豊平館と幌内炭鉱庁舎の類似」と題する講座が開講された。講師は北海道職業能力開発大学校の特別顧問であり、建築史家として著名な駒木定正氏が務められた。

   

   ※ 講義が行われた豊平館の2階大広間です。いかにも時代を感じさせる室内の意匠です。

 駒木氏はお雇い外国人による北海道開拓の歴史に触れながら、表題である「豊平館」と「幌内炭鉱庁舎」の共通性について紹介してくれた。ところが豊平館は現存しているが、幌内炭鉱庁舎は小樽手宮構内にあったということだが、とうの昔に解体されている。手がかりは残された写真だけである。しかし、駒木氏は残されていた写真と、北海道立文書館(現在、北海道立図書館に併設されている)や北海道大学附属図書館に赴いて平面図や解説文に接し、その類似性に迫ることが出来たという。

   

   ※ 講義を担当された駒木定正氏です。

 その類似性とは、まず外観に共通性があるという。具体的には①左右対称、②中央に玄関。③下見板張に共通性が見られるとした。さらに平面に共通性が見られるという。それは、①本館と付属家、②正面ポーチ、③玄関から廊下で付属家に接続、④廊下に階段、⑤居室の配置、など、実際に写真と図面をもとに説明された。

   

               

      ※ 豊平館の平面図です。

 駒木氏の探求はそこで止まらなかった。そもそも北海道の洋風建築の始まりは1873(明治6)年に完成した「開拓使本庁舎」(現在「北海道開拓の村」内に再現されビジターセンターとして活用されている)である。駒木氏はここに北海道の洋風建築の原点があると推察したのである。なるほどその平面図を見ると、付属家の配置に若干の違いはあるものの、その他の点では合致している。   

    

   ※ 小樽市手宮構内に建てられた当時の「幌内炭鉱庁舎」です。

        

        ※ その幌内炭鉱庁舎の平面図です。

  また残された古文書の中で遠藤明久氏という方が次のような言葉を残しているという。「札幌本庁舎と豊平館は、共に開拓使営繕課の設計で、札幌に建ち、アメリカ系の建築様式を基調とする木造建築である。いうなれば開拓使の正統派の建築である。特に豊平館は、開拓使の総決算的な内容をもち、開拓使正統派建築のピークに位置する作品である」と述べている。

   

     ※ 北海道開拓使の初代の「札幌本庁舎」です。

        

     ※ その「札幌本庁舎」の平面図です。他の建物とは付属家の配置が異なっています。(平面図の中央付近の縦線は頁境目がコピーの際に付いてしまったもので、平面図とは関わりのない線だそうです)

 こうした正統派建築の流れは、もちろんその他の建築物にも大いに影響を及ぼした。庁舎としては、工業局庁舎、煤田開採事務係、炭鉱鉄道事務所、北海道庁本庁舎(赤れんが庁舎)等々、その他お雇外国人官舎、手宮鉄道官舎、外国人のための一般住居などにもその特徴が表れていると駒木氏は指摘した。

 このような特徴が特に炭鉱と鉄道事業関係の建物に目立つのは、開拓使にとって最も重要な事業が炭鉱開発と鉄道敷設であったことを示すものだ、と駒木氏はまとめた。北海道の開発にとってお雇い外国人の存在がいかに大きかったかを示す一つの傍証として興味深いお話を伺うことが出来た講座だった。


サロン・ド・ハッチに癒されて

2022-10-16 22:00:32 | ステージ & エンターテイメント

 昭和歌謡を中心にアコーディオンで伴奏し、皆が心の中で口ずさむ。なんとも心和む集まりに参加した。この3~4年、カラオケにもいくことのなかった私には、例え声には出せずともなんとなく心が癒されたひと時だった…。

        

 一昨日(10月14日)、西区八軒にある「八軒地区センター」において「サロン・ド・ハッチ コンサート」が開催され参加した。参加を思い立ったのは、アコーディオンを片手に市内各所で歌ごえ喫茶的な活動を展開している石澤佳子さんが出演すると知ったからだ。いぜん、私は4・5回石澤さんの歌ごえ喫茶に参加して楽しい思いをしたことが蘇り参加してみたいと思い立ったのだ。

 ところで「サロン・ド・ハッチ」とは何のことだろうと思ったのだが、どうやら会場が八軒地区センターということもあり、八軒地区センターの会場をサロンのようにして開放し、地区住民の方々の交流を図りましょう、ということのようだ。いただいたパンフによると、その「サロン・ド・ハッチ」がコロナ禍のためにここ2年半ほど開かれていなかったということで、今回は本当に久しぶりの開催だったようだ。会場には開催を待ちわびた中高年の方々が100名近く参加していたようだ。

   

 石澤さんはどんな曲でも楽譜なしで自分流に弾きこなす技量をもった方で、今回も昭和歌謡を中心に多くの曲を演奏してくれた。その曲目はというと…。

 ①赤とんぼ、②野菊、③修学旅行、④さらば恋人よ、⑤恋人よ、⑥枯葉、⑦追憶(⑥、⑦はアコーディオン独奏で)、⑧湯の街エレジー、⑨遠くへ行きたい、⑩北酒場、〈休憩〉

 ⑪真夜中のギター、⑫帰ってこいよ、⑬津軽のふるさと、⑭だんご三兄弟、⑮リベルタンゴ(⑭、⑮はアコーディオン独奏で)、⑯黒ネコのタンゴ、⑰証城寺の狸囃子、⑱月の法善寺横町、⑲紅葉、⑳上を向いて歩こう、《アンコール》愛の讃歌

   

 問題は歌詞カードまで渡されて、石澤さんの素晴らしいアコーディン演奏があって、「声を出してはいけない」という縛りだった。参加者たちはついつい細やかに声を出していたようだ。それを聴いた周りの人たちも声を出したことで、主催者から何度も「声を出さないように!」と注意が入った。今の時期だから、主催者の注意はいたし方ない。しかし、歌うのが好きな方にとってはつらい規制だったに違いない。一日も早く以前のように大きな声を出して、ストレスが発散できるような日が来ることを願いたいものである。


北区歴史と文化の八十八選巡り №15

2022-10-15 21:32:51 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 今回は札幌市北区の創成川の東に広がる太平地区を訪れた。太平地区も明治時代に本州各地(徳島県、和歌山県など)から入植し、開拓された地である。現在は住宅街が広がる地域だが、開拓当時を偲ぶ史跡などを巡った。

 〈61〉創成川通りのポプラ並木

                                                                                                                                                                                                                                                                            

 創成川は大友亀太郎が慶応2(1866)年に市の中心部から札幌村にかけて「大友掘」を掘削した運河であるが、その後幾多の変遷を経て、当時の開拓使が明治19(1886)年から明治23(1990)年にかけて「大友堀」から北へ向かい直線的に茨戸まで貫いた人口の川である。屯田地区と太平地区を隔てるように貫く創成川のほとりに約3キロメートルにわたって並び立つ並木が「創成川通りのポプラ並木」である。その様は北国らしい雄大な美しい景観を呈しているが、ポプラ並木の誕生には次のような事情があったそうだ。

   

 大正初め、この一帯に水田、トウキビ・ジャガイモなどの畑と牧草地帯が広がり、放牧牛の侵入によって作物が踏み荒らされることがしばしばあった。村の人たちは放牧牛の侵入を防ぐため、創成川沿いにポプラの木を植えることになり、大正4(1915)年村人総出で植樹を行った。今日では、約3キロメートルにわたる美しい並木に成長している。  

                  

    〔住 所〕 北区太平7条1丁目北三番橋

    〔訪問日〕 10月7日

62〉太平の馬頭観世音

   

 この馬頭観世音は個人邸宅内にあるということだったので、示された住所のところまで行き、近くにいた方に尋ねたところ直ぐにその場所を教えていただくことができた。観世音の傍には次のように書かれた説明板が立っていた。

        

 今のように車や農機具がなかった昔の開拓農家にとって、馬は生活の全てであり、馬なくしては生活が成り立たない状態であった。馬は農家にとって陰の功労者とも言われている。この太平地区で活躍していた馬の健康を祈り、労苦―の感謝が「馬頭観世音」となった。この「馬頭観世音」碑は、大正13(1924)年に建立された。

   〔住 所〕 北区太平6条1丁目松岡氏邸内

   〔訪問日〕 10月7日

〈63〉太平会館資料室

   

 この施設を訪ねるに際して下調べをしていると、「資料室を訪ねる際は、北区の地域振興課に連絡すること」との記載を目にし、連絡をしたところ「資料室は現在公開されておりません」とのことで、その理由については伺えなかった。残念だが仕方がない。会館の外観を眺めるだけにとどめることにした。資料室についてはね次のような記述をみつけることができた。

   

 太平会館の2階には、太平地区の開たくの歴史を知ることができる資料室があります。むかしの農具や生活用具など約200点あり、開たく当時の農家の仕事や生活のようすを知ることができます。

  

  ※ 残念ながら地域の諸事情によって資料館の公開だけでなく、会館の利用も注視されているようだ。

   〔住 所〕 北区太平8条2丁目太平地区会館内

   〔訪問日〕 10月7日

〈64〉太平開基百年碑

   

 各地に開基百年記念碑が建立されているのと同様、太平地区にも「太平開基百年碑」が太平公園内に建てられていた。太平公園には「パークゴルフ場巡り」で訪れ「太平公園コース」でプレイさせていただいたが、この百年碑はパークゴルフ場のコース脇にあったのだが、その時は気づきもしなかった。まさに「見れども、見えず」である。その碑の隣には次のような説明があった。 

   

 この地は明治22(1889)年に徳島県、和歌山県などからの入植者によって開拓が始まった。北海道の冬の厳しい寒さと闘いながら未開の地を切り開き、作物を作ることが出来るようにするまでの労苦は計り知れないものがあったと言われている。この碑は、先人の労苦をしのび、入植以来百年を記念して昭和63(1988)年に建立された。

   

  〔住 所〕 北区太平12条3丁目太平公園内

  〔訪問日〕 10月7日


円熟のソプラノ 礼拝堂に響き渡る

2022-10-14 16:29:46 | ステージ & エンターテイメント

 年齢を感じさせない素晴らしいソプラノが教会の礼拝堂に響き渡った。道内を中心に精力的にオペラなどの演奏活動を続け、後進の指導にも情熱を傾けているソプラノ歌手の萩原のり子さんのコンサートを聴く機会を得た。

        

 10月13日(木)、「北一条教会昼やすみコンサート」と称して、ソプラノ歌手・萩原のり子さんのコンサートがお昼休みを利用して開かれたので参加した。

 北一条教会は例年月1回程度恒常的に「昼やすみコンサート」を開催していたのだが、 今般のコロナ禍にあってしばらくお休みしていたのだが、今月からようやく再開したということだ。したがって今回は実に第187回目のコンサートということだった。

 北一条教会は我が家からも近く、以前はよく参加して楽しませてもらっていたが、今回久しぶりに参加する機会を得た

 今回のコンサートは上記したようにソプラノの萩原のり子さんと、オルガン伴奏の山田悦子さんによるコンサートだった。会場となった北一条教会の礼拝堂にはたくさんの人たちが詰めかけ、ざっと100人前後の人たちが萩原さんの歌声に耳を傾けたのではないか。

             

 例によって演奏された曲目を紹介すると…、

 ◆E.R.コンダー/「みどりも深き」(讃美歌 122)

 ◆R.シューマン/「東方のばらから」(ミルテの花より)

 ◆J.ブラームス/「日曜日」       

 ◆S.カルク=エーレルト/「大いに喜べ、わが魂よ」(オルガン演奏)

 ◆L.クレーブス/小プレリュードとフーガ ハ長調(オルガン演奏)

 ◆A.スカルラッテイ/「むごい運命よ!」

 ◆G.F.F.ヴェルディ/「詩人の祈り」

 ◆F.P.トスティ/「口づけ」

 ◆高階哲夫/時計台の鐘

 短い時間の中でこれだけの曲を披露されたのだが、残念ながら私の耳はクラシックの歌曲について聴く耳を持ち合わせてはいない。どれもが同じように聴こえてくるという超初心者である。私はただ、彼女が朗々と歌い上げるソプラノの調べを拝聴するだけだった。意外に思ったのは、最初に披露された讃美歌が私には聴きやすくすんなりと耳に入ってきたことには驚いた。

   

   ※ コンサートは椅子席の向きとは反対のパイプオルガンの演奏席がある二階バルコニーで演奏された。

 萩原のり子さんのプロフィールを少し調べてみた。予想していたとおり年齢は不詳だっが大学卒業年次(国立音楽大学)から逆算すると65歳前後のようである。彼女はすでに平成15年には「札幌市文化奨励賞」を受賞されていて、いわば札幌の声楽界の大御所のようである。にもかかわらず、その澄み渡るような高音のソプラノは年齢を感じさせない歌声に聴こえた。クラシック歌曲の超初心者である私には彼女の真の価値は測りかねるが、素晴らしい歌声を聴くことができたという充足感だけは確かに残った。

 「北一条教会昼やすみコンサート」は、11月、12月にも予定されているという。都合がつくかぎり今後も駆け付けたいと思っている。


金剛山歌劇団公演を観る

2022-10-13 16:51:05 | ステージ & エンターテイメント

 金剛山…、現在の北朝鮮に属する山の一つで「クムガンサン」と呼称する。その名を冠する「金剛山歌劇団」は在日北朝鮮人の子弟で構成する歌劇団で、北朝鮮が国外におく唯一の芸術団体だそうだ。その金剛山歌劇団の公演が札幌であり観劇の機会を得た。

          

 10月12日(水)午後、札幌市教育文化会館において「金剛山歌劇団アンサンブル公演あの空に” があった。

 公演の内容的には在日北朝鮮人の子弟が演ずるのだから、北朝鮮を礼賛するような内容となるのではという危惧する気持ちはあったのだが…。私は伝えられるような専制的な国家の在り方や国際世論を無視して頻繁にミサイルを発射したり、核実験をしようとしている国家体制をとても許容する気持ちにはなれない。ただ、「彼を知り 己れを知れば 百戦殆(あや)うからず」という言葉もある。ただやみくもに忌避するだけでなく、「何でも自分の目で見て、自分自身で体験してみて」そのうえで自分自身が価値判断することが大切では、と考えている。今回、幸いにも招待券を入手できたこともあり、観劇することにした。

 そうすると驚いた!私は開演45分前頃に会場に着いた(開場15分前)のだが、なんと会場の教育文化会館の周りを観劇しようとする人たちが長蛇の列をつくり取り囲んでいるではないか!私は一瞬入場できないのでは?と危惧したが、長い列の最後について無事に入場することができた。結局はあの大ホールのキャパいっぱいの1,100人を飲み込んで公演が行われた。(もしかして私のような招待券を入手した方が多かった?)

             

             ※ 上の男性が演奏している楽器がチャンセナブです。           

 公演は “アンサンブル公演” と銘打っているように独唱有り、重唱有り、独奏有り、重奏有り、群舞有り、独舞有り、とバラエティーに富んだ内容だった。プログラムを紹介すると…、

 ◆女声独唱と舞踊「祖国の空に」

 ◆チャンセナブとソヘグム重奏「思郷歌」

 ◆4人舞「朗らかなセナプの音色」

 ◆チョッテ独奏「天の川と鳳凰」

 ◆独舞「パラの舞」

 ◆女声独唱「ブランコに乗る乙女」

 ◆群舞「太鼓の舞」

 ◆女声3重唱「ウリハッキョは私たちの故郷」

 ◆男声2重唱「雲に身を乗せ」

 ◆混声重唱「晴れた空に向かって」

 ◆群舞「渡り鳥に願いを込めて」

 ◆男声独唱「嶺をこえて」

 ◆民俗舞踊「農楽」

一目見てお分かりのように非常にバラエティーに富んだ内容である。しかもこれらの演目が次から次へと息も切らさず、途中の休憩もなく一気に90分間連続して演じられた。

           

           ※ 女性が演奏している楽器がチョッテです。

 そしてその特徴の一つは、北朝鮮独特の楽器の演奏があったことだ。チャンセナブソヘグムチョッテと私にとっては初めて出会う楽器の数々だった。さらに群舞では以前に韓国で見た韓国伝統芸能と酷似した衣装や太鼓などを使用していていたところを見るとルーツは同じであることを改めて認識させられた。

 さて、演目の題名に注目いただきたい。ここに彼らのメッセージのようなものを私は感じたのだ。「祖国の空に」、「思郷歌」、「ウリハッキョは私たちの故郷」、「雲に身を乗せ」、「晴れた空に向かって」、「渡り鳥に願いを込めて」…、歌に関しては朝鮮語で歌唱されたが、会場内には字幕が出されていた。題名、あるいは歌詞から、私の祖国北朝鮮に帰りたい、あるいはあの空の下には私の祖国北朝鮮がある、渡り鳥のように自由に空を飛んで行きたい、といった内容であった。露骨に北朝鮮は素晴らしい国、地上の楽園であるなどと謳ってはいなかったが、その底意には北朝鮮を礼賛する思いが滲み出ていたのでは、と感じたのは私だけだったろうか?  

 エンターテイメントとしては楽しめたところもあったが、心の底から楽しめたとはどうしても言えない「金剛山歌劇団」の公演だった。 


札幌パークゴルフ場めぐり エピローグ

2022-10-12 16:19:34 | 札幌市のパークゴルフ場巡り

 2020年より3年の歳月をかけて(ちとオーバーな表現だが…)札幌市内にある札幌市が管轄する全パークゴルフ場65コースをこのほど全て回り終えることができた!他人から見るとなんともまあ酔狂な企てと映るかと思われるが、本人はいたって真面目に取り組んだ。その3年の月日を振り返ってみたい。

 記録を見るとこの企画の第1回目は2020年7月13日に手稲区の「星置緑地パークゴルフ場」を訪れたのが最初である。年数ごとに訪れたコース数を振り返ってみると…、

 ◆2020年度 №1 ~ 28     28コース

 ◆2021年度 №29 ~ 33      5コース

 ◆2022年度 №34 ~ 65     33コース

となる。始めた当初は2年あれば終えることができるかな?と考えていたが2021年度はご存じのようにコロナウィルスが猛威を振るったこともあり、各コースが閉鎖になるなどしたために僅か5コースを訪れたに過ぎなかったために3年を要したということである。

   

   ※ 札幌市では写真のような「パークゴルフ場マップ」を発行しています。

 訪れたコースの大きさはさまざまだった。改めてホール数で振り返ってみると…。

 ◆72ホール  1コース

 ◆45ホール  1コース

 ◆36ホール  3コース

 ◆27ホール  4ホール

 ◆18ホール  17ホール

 ◆ 9ホール  39ホール

   

   ※ 全65コースの地図とコース概要が記されています。

 圧倒的に9ホールという小さなパークゴルフ場が多かったが、地域住民にとっては気軽に楽しめるコースが多いということだろう。一方、大きなコースとしては72ホールという広大なホール数を有する「札幌パークゴルフ倶楽部福移の杜コース」は見渡す限りに素晴らしいコースが広がっていた。時にはこうした広大なコースで一日いっぱい楽しむのも良い方法かもしれない。(もっとも民間のパークゴルフ場では108ホールを有するコースがあるらしい)

   

   ※ 「札幌パークゴルフ倶楽部福移の杜コース」はご覧のように遠くまでコースがいっぱいに広がっています。

         

   ※ まるで本物のゴルフコースのようにフェアウェイが縞模様に整備されていた「サッポロさとらんど内コース」です。

 次に65ホールを回りながら感じたことを二つのトピックで考えてみたい。

パークゴルフ人口は減少気味?

 高齢世代が増えていると言われるのに、パークゴルフ人口は減少傾向にあるとあるところで聞いた。それは今年9月に西区の「大空公園コース」を訪れた時だった。あまりにもプレイする人が多く、とても私が割り込んでプレイできる状況ではなかった。そこでコースの外縁を巡っている際に地元のパークゴルフクラブの事務局を担当している方と出会った。その方が言うには、「コロナ禍もあり近年クラブに入会する人が減っている」とのことだった。

   

   ※ 「大空公園コース」の第1ホールのティーのところで順番を待つ多くの人たちです。

 また、実際に私が各所でプレイしていても、コースによってはほとんど人影を見ることができないところがあった。そのことについてはレポートの中でも触れたが、あるいは高齢世代が増えているといっても趣味の多様化が進んでいるのかもしれない。事実、私が所属する「めだかの学校」に集う人たちの中からもパークゴルフの話題が出ることはなかった。

パークゴルフ場の淘汰が進む?

 パークゴルフ人口の減少は、近い将来において現在ある65のパークゴルフ場の選別・淘汰が進むのではないか、ということが予想される。私が訪れてみて驚いたのは手稲区の「曙西緑地コース」だった。そこはプレイした形跡がまったく見られないようなコースだった。雑草が生い繁っていて、近くの住民の方々もプレイする気持ちになれないのかな?と思われた。「曙西緑地コース」ほど酷くはなくても、「これは早晩廃止になるのでは?」と思われるようなところがいくつもあった。例え9ホールの小さなコースでも、地域の住民の方々が自主的、積極的に維持・管理しているところはこれからも残っていくであろうが、そうでないところはどうであろうか?

    

   ※ 「曙西緑地コース」はまるでプレイした形跡が見えませんでした。

           

  ※ こちらは「中沼リサイクル団地コース」ですが、フェアウェイか、ラフか、分からないようなコースでした。 

 これからはコースをしっかりと管理している有料コースと、上記のように地域住民が自主的・積極的に維持・管理しているコースが残っていくように思われたのだが…。

 パークゴルフ場は狭い面積でも楽しめることから、発祥の地・北海道では爆発的に増えたと聞いている。しかし、いくら狭い面積でもコースが造れるとはいっても札幌の場合は都心近くで造成することは難しい。事実、中央区には豊平川河畔に造られた二つのコースだけである。各コースとも我が家からはけっこう離れたところにあった。したがって、65コースを巡るために車もけっこう走らせた。冒頭、リード文で「酔狂な企て」と称したが、私のブログの趣旨が「札幌を見る!観る!視る!」ということだから趣旨とは合致し、札幌の街をまた別の角度から見ることができたと納得し、一つの企画を無事終えることができたことに満足している。