屯田地区最後の最後の5件は、江南神社境内にある3つの歴史的な遺構と、2つの名馬を祀る石碑である。江南神社は「屯田開拓顕彰広場」から道路一つ隔てたところに位置していた。また、馬の碑は個人宅の敷地にあったために探すために少々苦労した。
※ 江南神社の鳥居です。「江南」という名称については後述しています。
〈56〉篠路兵村「移住記念碑」
「篠路兵村『移住記念碑』」などがある江南神社の鳥居を潜ると直ぐに「望郷のアカマツ」(後述する)が立っているが、そこを通り過ぎ参道を進むと社殿前の右側に2つの石碑が建っている。その2つのなかで小さな自然石を使っているのが「篠路兵村『移住記念碑』」である。
※ 移住記念碑の正面ですが、逆光になって文字が良く見えません。
移住7年後に早くも記念碑を建てたということは、おそらく困難だった開墾に一応の目途が付き、永住の覚悟ができたことから移住者たちの意志が固まったことで記念碑建立を思い立ったものと私は考えたのだが…。
※ こちらが「移住記念碑」の裏側です。
その石碑について下のような説明がなされていた。
篠路兵村(現在屯田)に屯田第一大隊第四中隊として200戸の屯田兵が入植したのは、明治22(1889)年7月15日。家族も含めると1,056人の集団入植だった。士族屯田としては最終の入地で、出身は徳島県から29戸、和歌山県から37戸、山口県から44戸、福岡県から13戸、熊本県から45戸、福井県から20戸、石川県から32戸であった。この 記念碑は入植して7年後の明治29(1896)年に建立された。
〔住 所〕 北区屯田7条6丁目江南神社境内
〔訪問日〕 10月3日
〈57〉屯田開基九十周年記念顕彰碑
上記の「篠路兵村『移住記念碑』」の左隣りに建っているのが「屯田開基九十周年記念顕彰碑」である。「篠路兵村『移住記念碑』」に比べると、はるかに大きく立派な石碑である。移住地は一大水田地帯として発展して、移住者たちにも余裕が生まれたことで立派な顕彰碑が立てられたものと想像することができる。
※ 九十周年記念顕彰碑は大きく立派なものが建てられていました。
傍に立てられた説明板には次のように説明されていた。
※ 同じく九十周年記念顕彰碑の裏側です。
建立され明治22(1889)年7月15 日に220戸の屯田兵が入植以来、数度の水害や冷害凶作などで、明治42(1909)年には70戸あまりの小集落になった。しかし、たび重なる自然の猛威を乗り越えて一大水田地帯となり、昭和40年代に入って住宅地として発展してきた。この碑は、昭和53(1978)年の開基90周年を記念して建立された。正面の短歌は吹田晋平の作である。
その吹田氏の短歌であるが、農民歌人として名を上げた人であるが、本名を菅進といい、新琴似屯田兵の二代目だったそうだ。氏は当地が昭和33年に札幌市と合併して以来、永年市会議員として屯田町の発展に尽くしたという。碑に刻まれている短歌は下記のような内容である。なお、碑への揮毫は当時の北海道知事だった堂垣内尚弘氏によるものだという。
開基九十周年記念顕彰碑
神をうやまい 祖をとうとびて 九十年 にい宮はなる 江南のさとに 晋平
北海道知事 堂垣内直弘 書
〔住 所〕 北区屯田7条6丁目江南神社境内
〔訪問日〕 10月3日
〈58〉望郷のアカマツ
※ 「望郷のアカマツ」を正面から見たものです。
江南神社の鳥居を潜ると直ぐに左側にかなり幹が曲がって立つ松が目に入る。これが「望郷のアカマツ」と呼ばれている松である。苗を移植以来130年近く経ち、衰えも目立つようだ。松の支えや、幹を保護する措置が目立ち、痛々しい姿であるが地域の人たちにとっては先祖を偲ぶ貴重な松であることが伝わってきた。その松の傍には下記のように説明する説明板が立っていた。
※ 少し角度を変えてみると、老化のため痛々しい姿が目に入ります。
※ アカマツの幹は写真のように保護膜でグルグル巻きにされていました。
明治27(1894)年の春、屯田本部は屯田兵が故郷をしのぶよすがにと、屯田兵220戸にアカマツの苗木各2本、水松(オンコ)の苗木各1本を「望郷の松」と銘打って無償で配布した。屯田兵の定着率を少しでも高めるための思いやりであるが、屯田兵は喜んで兵屋の前庭に植えた。現在(平成3年)、屯田にはこの「望郷の松」を含め4本残っている。
〔住 所〕 北区屯田7条6丁目江南神社境内
〔訪問日〕 10月3日
※ なお、当地は以前は「篠路村」、以後は「屯田」と称されている地域の神社名が「江南」という呼称に違和感を感じて調べてみた。すると次のような記述に出会った。「創建当時、石狩川の南側に位置することから川(江)の南ということで江南という地名が生まれ、江南神社になったと言われています」う~ん。納得です。
〈59〉馬霊神蕾驊(らいか)号の碑
この馬霊神を探すのに下記の住所まで車のナビに導かれて進んだが、実際の設置個所は分からない。たまたま近くにいた住民の方に「この辺りに昔から住まわれている服部さんのお宅は知りませんか?」と尋ねたところ、「あゝ、地主さんの家ですね」と話され直ぐにその家を教えてもらうことができた。そのお宅の近くまで行くと、敷地の中で道路の方に面してその馬霊神の碑が建っていた。想像していたよりは小さな碑だったが、歴史を感じさせるものだった。その碑の村の傍には次のような説明が記されていた。
※ 札幌軟石製の碑です。
馬霊神蕾驊号の碑
蕾驊号は、ペルシュロン系の種牡馬で、農林省種畜場(真駒内)から馬産改良のため、篠路兵村(現在の屯田)に貸し下げになった名馬で、この種牡場により屯田はもとより、江別、石狩町生振、新川、篠路、など石狩地方の広大な地域の馬産改良に大きな成果をあげた。この馬を飼養していた服部政雄氏がその功績を讃えて明治42年(1909年)に建立したものである。札幌軟石造りで、三段積み台石の上に高さ80センチメートル、幅30センチメートルの棹石を建てている。
〔住 所〕 北区屯田7条2丁目服部氏邸内
〔訪問日〕 10月3日
〈60〉馬霊第七王驊(おうか)号之碑
こちらの碑を探すのにもかなり苦労した。上記の服部邸と同じように石川邸そのものは付近の住民方に教えられ直ぐに分かった。しかし、広壮な石川邸の周りを探してもそれらしきものは見つからなかった。そこで恐れながらも敷地内の広大な庭を覗かせていただいた。すると、本宅ではなく同じ敷地内に住まわれている子息の方らしい人から「何か用事があるのか?」と問い質されたので「王驊号の碑を探しています。一枚写真を撮りたいので」と話をすると、直ぐに教えていただいた。そこは教えていただいたところからかなり遠い所だった。苦労して探した碑も蕾驊号の碑と同じような形態をした碑だった。そこにはやはり下のような説明が書かれていた。
※ こらちも同じように札幌軟石製品で、大きさもほぼ似通っていました。
馬霊第七王驊号之碑
昭和26(1951)年に生まれたペルシュロン種の牡馬で、昭和28年、釧路市で開かれた全道共進会で、一等賞、最優秀賞を獲得。また、石狩管内二歳馬三歳馬共進会でも一等賞に輝いた名馬で、篠路ペルシュロンの名を上げた。昭和35年子馬を生んだあと死んだ。その子馬も母馬のあとを追うように死んだという。石川茂氏が愛馬の死をいたんで昭和37年に建立した。札幌軟石造りで、二段積み台石の上に高さ70センチメートル、幅30センチメートルの棹石で建てている。
〔住 所〕 北区屯田7条1丁目石川氏邸内
〔訪問日〕 10月3日