田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌市民吹奏楽祭リポート №1

2024-01-21 20:32:13 | ステージ & エンターテイメント
 音のシャワーを浴び続けたというような優雅な表現はとても似合わない。それはもう音の洪水に溺れそうになりながらの二日間だった。そこで聴いたこと、感じたこと、思ったことを何回かに分けてリポートしたい。
     
 昨日、今日(1月20日、21日)と札幌コンサートホールKitaraにおいて「札幌市民吹奏楽祭」が開催されたので私は他の予定をキャンセルして二日間通い詰めた。ということは朝の10時から夕方18時まで2日間Kitaraに缶詰めになって吹奏楽を聴き続けるということなのだ。その間、休みは昼休みのわずか30分間だけである。だから私はこの二日間で計15時間吹奏楽を聴き続けたことになる。(もっとも舞台の出入りがあるので、実質音楽を聴いた時間はそれほどではないのだが…)
 ここであるデータを示すと、二日間で出演した吹奏楽団体は小・中・高校・一般と併せて計85団体(1団体が急遽出演を辞退した)である。私は全ての団体の演奏者の数をその都度数えていたが、さきほどその数を合計したところ2,432名と出た。多少の誤差はあるかもしれないが大きく違いはないはずである。凄い数の演奏者がKitaraのステージで演奏したということである。
 二日間、Kitaraの座席に座り続けて多くの演奏を聴きながら、いろいろことが頭を駆け巡った。そのことを紐解きながら、札幌の吹奏楽について若干リポートしてみたい。
    
 ※ 判読は難しいでしょうが、二日間で出演した全86団体の団体名です。

私と吹奏楽
 その前に、音楽にはまるで素人の私が何故に二日間も吹奏楽の演奏会に通ったのかについて述べておかねばなるまい。
 それは多分に私のこれまで生きてきた過程が影響しているのかな?と考えている。
 私はこれまでの人生のほとんどをオホーツク管内で過ごしてきた。オホーツク管内の音楽状況について紹介すると、“聴く音楽” として私たちの前にあったのは「吹奏楽」だけだった。私の現職時代というと、オホーツク管内の各学校に吹奏楽が根付き始めた時期だった。各市町村では予算を計上して中心校に管楽器を整備し、吹奏楽部の設立を要請することで各地に吹奏楽部が誕生し始めた頃だった。私たちはそうして誕生した吹奏楽部の演奏を聴くのが “聴く音楽” だった。管弦楽など夢のまた夢、今思い出すと確か北見市に読売交響楽団が来たときは町の教育委員会がバスを仕立てて北見まで送迎してくれたものである。
 つまり私の身近にあったのは「吹奏楽」だけだったのだ。だから吹奏楽はそれなりに聴く機会があり、吹奏楽についてはある意味で “親和性” のようなものがあるのだ。
 札幌に居を移したことで、管弦楽に触れる機会が多くなり、弦の響きには魅了されるが、弦のない「吹奏楽」にも惹かれるのだ。そんな「吹奏楽」を今回はイヤというほど聴くことができた。
 本日はKitaraから帰ってきたが、心身ともに疲れている。明日から詳細に振り返ってみることにしたい。 

御朱印収集巡り №22 豊平神社

2024-01-20 20:10:14 | 神社参拝・御朱印収集関連
 奇しくもちょうど半年ぶりのご朱印収集巡りとなった。訪れた豊平神社は千歳へ向かう国道36号線に面したところに在った。境内はけっして広くはなかったが、効率よく各施設が配置されているように感じた豊平神社だった。
      
 「久しく御朱印収集をしていないなぁ」との思いから、1月18日に「豊平神社」を訪れた。そのことをレポートするために「前回は何時だったろうか?」と調べてみると、昨年7月18日に篠路神社を訪れたのが最後だったことが判明した。予め図ったわけではなかったのだが、奇しくも半年ぶりに御朱印巡りを再開したことになる。
 豊平神社は「豊平公園」や「道立総合体育館きたえーる」からそれほど離れていない、国道36号線に面したことろに端然と建っていた。

  
  ※ 国道36号線に面したところに鳥居が建てられていました。

 敷地は長方形の形で、鳥居を潜り参道の両側に駐車場を配し、その奥に神門が両脇に立ち、右手には手水舎が建てられていた。さらには二対の雪を被った狛犬が参詣する私を見下ろしていた。

  
  ※ 本殿を前にして右手に手水舎がありました。(冬期は使用禁止)その奥の方に社務所が見えます。
  
  ※ 本殿前の狛犬は雪を被っていました。

 正面には本殿(拝殿)が屹立し、本殿の右横には棟続きで社務所が建てられていた。

  
  ※ 豊平神社の本殿(拝殿)です。

 私はいつものように、初めに拝殿にお参りした後、社務所に伺い「御朱印をいただきたい」旨申し出ると、直筆でいただくことができた。

      

 なお、豊平神社は旧社格が「郷社」となっているが、当初(1919年)は「村社」を授けられたものが1943年に「郷社」に格上げになったようである。(現在、旧社格は特に意味をなさないものらしいが…)

【豊平神社 情報】
◇旧社格:郷社
◇所属:北海道神社庁
◇住所:札幌市豊平区豊平4条13丁目1-18  
◇御朱印:あり(直筆 初穂料500円)
◇参拝可能時間:24時間
◇社務所受付時間:概ね 9:00~17:00  
◇例祭日:7月15日
◇駐車場:有り
◇アクセス:地下鉄東豊線「豊平公園駅」3番出口から徒歩約8分(約650m)
◇創建: 1871年(明治4年)
◇代表的ご利益: 〇商売繁盛 〇開運厄除け 〇金運上昇 〇五穀豊穣        
◇御朱印記帳日 1月18日

SAPPORO MOBILITY SHOW 2024

2024-01-19 16:57:46 | イベント
 特に車に関心があるわけではない。北海道新聞が大々的に広告をばんばんと打つものだから、「まあ、お祭りに乗ってみようか」的な軽い気持ちで参加してみた。車好きにはたまらなく映ったかもしれないが、私には……。

  
  ※ 会場のドームの外のデコレーションで目に留まったのはこれだけ。少し寂しい気がしたのだが…。

 コロナ禍などもあり札幌では4年ぶりの開催という。これを機に「SAPPORO MOTOR SHOW」から「SAPPORO MOBILITY SHOW」に名称を変更したという。
 MOBILITY(モビリティ)とは、「人やもの、ことを空間的に移動させる能力、あるいは機構」を指す言葉だという。MOTOR(モーター)と大きな変わりはないと思うが、人やモノを移動する手段としてより広い概念で捉えようしたのでは、と私は理解したのだが…。

  
  ※ 会場全体を写したものですが、こちらも私的には少し寂しいかな?という思いだったが…。

 さて、私の感想は?といえば「こんなものかなぁ…」というのが正直な感想である。展示された車は確かに近未来を予感させる外観を纏った車が陳列されていた。

  
  ※ Nissan Hyper Tourerのミニバンです。

 最初に遭遇したのは、「Nissan Hyper Tourer」というミニバンだった。特徴は後部座席がまるで応接室のような設えになっている点だった。将来、政治家としか、会社の重役たちが重用する車なのだろうか?

  
  ※ HONDAの「CR-V FCEV」という燃料電池車です。

 続いて目に留まったのがHONDA「CR-V FCEV」という次世代燃料電池車だった。この車は今年中に生産を開始すると発表済みということだが、いよいよ燃料電池車時代が到来するようだ。

  
  ※ TOYOTAのKAYOBAKOという多用途カーです。

 少し変わった趣向で目に留まったのがTOYOTAの「KAYOBAKO」という多用途カーである。KAYOIBAKO(通い箱)とは、工場など生産現場に積まれているカラフルなプラスチック製の箱を指すそうだ。この箱でもって工場と取引先との間などを行き来して、部品や製品を運ぶための専用の容器だそうだ。この車もそうしたコンセプトのもと、キャンプをはじめとしてあらゆる用途に応用できる移動手段として考えられたもののようである。
 その他にも国内のメーカーをはじめ、外国のメーカーも一部参加していて近未来の車を会場いっぱいに展示していた。

  
  ※ TOYOTAのレゴ製のGR SUPRA(右側)、奥が実車です。
  
  ※ レゴ製の GS SUPRAを正面から撮りました。

 会場内で特に目立っていたのが、TOYOTAの「GR SUPRA(スープラ)の実車と、その横に実車大のレゴで作られたSUPRAが並んで展示されていたことだ。実車はもちろん流体型の素晴らしい車体を見せていたが、レゴ製のほうも実車に負けず劣らずの出来栄えだったのに驚いた。なお、制作に使ったレゴは477,303個だそうだ。面白いのは実車のほうの最高時速が250kmなのに対して、レゴ製の方は最高時速28kmだそうである。

  
  ※ POLARIS THIMBERSLED製のTimbersled ARO137です。

 SHOWには二輪メーカーも多数出展していたが、その中に一つだけタイヤを装着しないでスキーのようなものを装着した二輪車のようなものが目に入った。POLARIS THIMBERSLED(ポラリスティンバースレッド)社製「Timbersled ARO137」という雪上バイクである。詳しくは調べていないが1台100万円前後するようである。限られた用途しかなくとも、求める人はいるんですねぇ。

  
  ※ スバル車のコンセプトカーです。
  
  ※ こちらは日産のコンセプトカーです。

 と見て回ったのだが、どうも私のように冷めた目で見てみると、全体に熱気があまり感じられないなぁ、という感想を抱いた。もっとも、本日初日は金曜日の平日ということで客足もイマイチだったのかもしれない。明日、明後日はたくさんの人が詰めかけ大賑わいとなるのだろうか?そうなることを期待したい。

  
  ※ マツダ車が社員の家族から集めたミニカー4,018台を集めて展示したそうです。

偉人 関寛斎について学ぶ

2024-01-18 19:36:18 | 講演・講義・フォーラム等
 医師でありながら未開の北海道開発に尽力された関寛斎の存在を私は知らなかった。しかも関寛斎が開拓を担ったところは、私が住んでいたところからそれほど遠くないところだったことが判り、私の不明を恥じるばかりだった。

 1月16日(火)夜、北海道自治労会館において「労文教リレー講座」の第4回講座が開催され参加した。第4回目の講座は「医師で開拓者・関寛斎の足跡を辿って見えること」と題して旭川大学名誉教授の竹中英泰氏が講義された。
 時は1902(明治35)年、関寛斎73歳にして当時未開の大地十勝管内・陸別町(当時斗満と称する地)に入植し、10年間苦闘し開拓した土地を農民に分け与えたようだ。
        
        ※ 講師を務められた竹中英泰氏です。

 講師の竹中氏は専門が経済であったため関寛斎のことなどは知らなかったそうだ。ところが旭川大を退職後、旭川医大において学生たちに「地域社会論」を講じることになったという。つまり医師の卵たちに北海道のことをより良く知ってもらう講座を担当することになり、いろいろと調べているうちに医師でありながら、北海道開拓を担った関寛斎のことを知るに至ったそうだ。
 竹中氏が調べる中、関寛斎について書かれた書籍には次のようなものがあったそうだ。
 ◇徳富蘆花著「みみずのたはごと」(1913年)
 ◇司馬遼太郎著「胡蝶の夢」(1979年)
 ◇城山三郎著「人生 余熱あり」(1989年)
 ◇陸別町郷土叢書「原野を拓く 関寛 開拓の理想とその背景」
   (1991年)
 ◇高田都著「あい 永遠に在り」(2013年)
 ◇合田一道著「評伝 関寛斎1830-1912 極寒の地に一身を捧げた老医」(2020年)
       
       ※ 合田一道氏著の「評伝 関寛斎」の表紙です。

 実に多くの方が関寛斎の偉業を取り上げ、書籍として発刊していることがわかる。
 講座では、これらの著書の肝心な部分を取り上げて紹介していただいた。
 それによると関寛斎は1830(天保1)年に生を受けたがけっして恵まれた幼少期ではなかった。しかし、自らの努力と周りの助けを受けながら医師としてオランダ医学の修業を積み、幕末には幕府軍の前線病院長(頭取)として負傷者たちの救済に活躍し、明治に入ってからは禄籍を返済して町医者として30年間にわたり地域医療に尽くしたものの、自らの理想に燃えて73歳の高齢にして未開の大地陸別の開拓に挑んだという。
 当時の陸別というと、汽車は帯広までしか走っておらず、帯広からは徒歩で陸別まで向かったそうだ。開拓の苦闘の様子についての紹介はなかったが、おそらく想像に絶する困難に遭遇しながらのものではなかったろうか?陸別というと、現在でも日本一の極寒の地として有名だが、当時もそうしたことが伝わっていて寛斎は敢えてそうした困難な地を選択したのだろうか?関寛斎のことをいち早く書籍に著した徳富蘆花は、寛斎が入植した6年後に実際に陸別(斗満)を訪れ、5日間過ごすなど寛斎と交友があったことを著したという。
 寛斎は陸別での10年間の苦闘の末に83歳で死去されたそうだが、寛斎の息子の又一は札幌農学校に学び、アメリカ農法を身に付けたことで寛斎の思想とは違ったそうだが、陸別を開拓するという遺志を繋いでいったそうである。
   
※ 陸別町内の公園に設置されている関寛斎の在りし日を伝える銅像です。

 ところで私は管内は違えども、国鉄池北線(今は廃線)に乗ると僅か2駅しか離れていなかったオホーツク管内の置戸町に若き頃に10年間勤めていた経験がある。そんな近くで暮らしていながら関寛斎の偉業のことについては全く知ることなく過ごしてきた。自らの不明を恥じるばかりである。
 陸別の道の駅は「関寛斎資料館」を兼ねているという。機会があればぜひ立ち寄り、関寛斎の偉業について深く知りたいと思っている。

初スノーシュー in 旭山記念公園

2024-01-17 19:32:45 | スノーシュートレック & スノーハイク
 スノーシューのフィールドとしてはちょっと箱庭的なのだが、それでも昨夜降った大雪のためにコースによっては深雪も楽しめ、初スノーシューとしては楽しく雪上を巡ることができた。
※ 公園全図です。真ん中の駐車場から、西側も、東側も一応一通り巡り歩きました。

 今日の本来の予定は岩見沢市のスキー場へ行こうと考えていたのだが、昨日の大雪で道路事情が良くないのではと考え断念することにした。
 「それじゃ、どうしょう?」と考えた時に、今シーズンはまだスノーシューを履いていなかったので「それじゃ、近間でスノーシューを楽しもう」と考えついた。
 旭山記念公園は我が家から車で10分くらいしかかからない近間にありながら、けっこう野趣に富んだ市民に人気の公園である。
 車の上に積もった雪を払いのけるなどに手間取り、公園についてスノーシューを履き終えたときには午後を回っていた。
  
  ※ 第1駐車場にはたくさんの車が停まっており、公園の人気ぶりが伺えます。

 公園はやはり人気のようで、主な散策路は多くの人たちがツボ足で歩いた跡で固まっていてスノーシューは必要ないくらいだった。私は時には足跡をトレースし、時には足跡から外れたりしながら、つり橋を渡り、公園内の高いところに位置する「風の丘」を目ざした。散策路にはツボ足で歩く人たちの姿が時折り見られた。
  
  ※ まずはつり橋を渡り「風の丘」を目ざしました。
  
  ※ 「風の丘」を目ざす上り道。足跡がありませんでした。
  
  ※ 足跡のないところでは、ご覧のとおりスノーシューもすっぽりと埋まりました。

 「風の丘」には展望台のような建物が建っており、周囲の中で最も高いところに位置していて、風が通り抜けることから「風の丘」と命名されたのだろうか?
  
  ※ 「風の丘」のところにあった東屋です。屋根の雪が大雪が降ったことを伺わせます。
  
  ※ 主だった散策路では、こうしてツボ足で巡っている方がいました。

 「風の丘」を通り過ぎ、公園の西側を回り込むように「ポーランドの森」、「ミュンヘンの森」を通り抜け、公園の入口に戻った。

  
  ※ 「ポーランドの森」の近くからは「藻岩山」がすぐ近くに見えました。

 そこからまた、今度は「展望広場」を巻くように西側へ歩を進めた。そして私にとっては初体験だった公園の西端にある「ちびっ子広場」へ向かった。「ちびっ子広場」は適度な斜面となっており、近隣の子どもたちの絶好のそり遊びの場所になっているようだった。

  
  ※ 公園の散策路は写真のように柵が巡らされていることもあり、野趣豊かとは言い難いかな?
  
  ※ 「地びっ子広場」では、そり遊びをする親子の姿がありました。

 そして「展望広場」の方へ戻り、階段斜面となっているところを苦労して登った。展望広場の最上段からは札幌市の市街地が一望に見渡すことができた。
 時間にして約1時間30分。箱庭的と称したが、野趣に富んではいるものの比較的小さな 公園を一通り巡ることができし、深雪の中でスノーシューを楽しむこともできた。

  
  ※ 「展望広場」です。上方遠くに展望台が望めます。
  
  ※ その展望台からは札幌市街が一望のもとに見渡せます。
  
  ※ そして目を転ずると、三角山が近くに見えました。

 しかし、今シーズンの私はスノーシューで何かを!という目標はまだない。「札幌市市民の森」はすでに全てを踏破してしまったし、西岡レクの森ルートも体験済みである。未体験のところといえば、自然歩道が何本か残っているが、今のところあまり触手が動かない。何か目指す目標ができればと思っているが、あるいはこのままスノーシューはお蔵入りということになってしまうかもしれない。そうならないよう、あれこれと考えてみたいと思っているのだが…。
 

札幌吹奏楽団第50回記念定期演奏会

2024-01-16 15:17:51 | ステージ & エンターテイメント
 札幌吹奏楽団はアマチュアの吹奏楽団として昭和48(1973)年に第1回定期演奏会を開催以来、今回で50回目の記念すべき定期演奏会を開催した。記念の演奏会らしく、過去の定期演奏会で演奏した曲も散りばめて演奏会を自ら祝った。

     
 1月14日(日)夕刻(午後4時開演)、札幌コンサートホールKitaraにおいて札幌吹奏楽団の第50回記念定期演奏会を開催すると知って駆け付けてみた。
 札幌吹奏楽団はプログラムによると、スタッフ10名、メンバー41名と総勢50名あまりの楽団のようである。この日は賛助出演の方10名が加わり演奏の方も51名というボリュームのある音をキタラ大ホールに響かせてくれた。
 聴衆の方もキャパ2,008席のうち7割方の席が埋まっていたようである。
 例によって当日演奏された曲目を紹介すると…、
【第1部】
 ◇アルフレッド・リード/音楽祭のプレリュード   ※第42回
 ◇ヤン・ヴァン・デル=ロースト/カンタベリー・コラール  ※第23回
 ◇伊藤康英/北海変奏曲  ※第26回
 ◇保科洋/古祀(2018年 改訂版)  ※創立10周年、第35回
( 休 憩 )
【第2部】
 ◇清水大輔/夢のような庭
 ◇久石譲/ジブリ・スペシャル・セレクション “久石譲作品集”
 ◇アルフレッド・リード/アルメニアン・ダンス パートⅠ  
                      ※第15回、第32回
〔アンコール〕
 ◇磯部俶/遥かな友に
 ◇久石譲/さんぽ
    
     
※ コンサートのレポは写真撮影がNGのために文章の中のアクセントに写真を使用できないのがつらいところである。そこで今回は記念演奏会ということで楽団からクリアファイルが贈られたのでそれもスキャンして載せることにしました。

 曲名の後に※印で記したのはそれぞれの演奏会で演奏した曲を再演奏したという意味である。古参の楽団員の方々にとっては、それぞれ思い出深い曲だったのではと思われる。
 さて、肝心の演奏の方であるが、正直に吐露すると「あまりピンとこなかったかな?」というのが正直な感想である。音楽に関してド素人である私があれこれ評する力はないのだが、「吹奏楽って、こんなに雑味を感じさせられたっけ?」という思いが残ってしまった。どうもそのことがずーっと気がかりだった。ただ、吹奏楽を聴くのが久しぶりだったこともあり、単なる私のカン違いなのかもしれない。実は今月20日、21日に札幌市内で活動する吹奏楽団が一堂に会する「札幌市民吹奏楽祭」が開催されるので、そこを覗いてみて私の耳力(こんな言葉あった?)を確かめてみたいと思う。
 そんな中でピカッと光っていたように思えたのが吹奏楽団の中で脇役的存在であるパーカッションの7人である。非常に正確に、時に優しく、時に激しく、吹奏楽団の演奏を下支えしているように見えた。
   
   ※ 演奏会後には団長の池田真司氏(左)と指揮者の菅原克弘氏(右)がコンサート参加者に挨拶をされていました。

 いずれにしても、記念の演奏会らしく本格的な吹奏楽曲を堂々と演奏した札幌吹奏楽団の方々に労いとエールを贈りたいと思う。

花川病院市民公開講座 老いと病を考える

2024-01-15 20:02:04 | 講演・講義・フォーラム等
 加齢に伴う体力の低下、さまざまな老いの病気、さらには怖い怖~い「認知症」の発症など私たちシニア世代の前には様々なリスクが立ちはだかっている。主として老人のリハビリテーションを専門とする花川病院の医師とスタッフの方々のお話を伺った。
        
 1月13日(土)、道新DO-BOXにおいて午前10時から午後4時半まで一日びっしり組まれた花川病院市民公開講座に参加した。正直言って一日いっぱいの講座は大変だったが、得るものもそれなりにあった一日だった。
 プログラムは次のとおりだった。
【午前の講座】
 ◆「脳卒中と摂食嚥下障害」 普久原朝規医師 
 ◇「健康はお口の管理から」 歯科衛生士
 ◇「自宅でできる嚥下リハビリ」 言語聴覚士
【午後の部】
 ◆「65歳からのいきいき生活のために」 生駒一憲副理事長
 ◇「今から始めるフレイル・認知症対策」 理学療法士・作業療法士
 ◇「明日からやってみて!栄養アップで健康増進!」 管理栄養士
 「花川病院」というと聞いたことがあるなぁ、と思っていた。すると開会時に司会の方から「プロバスケットボールのレバンガ北海道のユニフォームの背中に病院名を入れている病院です」とのことだった。そう言われてみると、確かに見た覚えがあり「プロチームのスポンサードをするなんて、ずいぶん大きな病院なんだろうなぁ」と、その時思ったものだった。
    
 さて、講座の方であるが午前中の普久原朝規医師による「脳卒中と摂食嚥下障害」だが、氏はまず血管が詰まったり、破れたりする「脳卒中」について話された。「脳卒中」とは脳梗塞、脳出血、くも膜下出血などを総称する言葉だが、発症すると後遺症が大変である。「脳卒中」の疑いがある症状としては、〇急な激しい頭痛、〇喋りにくい、〇飲み込みにくい、〇普段に比べて様子がおかしい、〇体の半分が動かない、などの症状が見られた時には迷わず救急車を!とのことだった。そして「脳卒中予防の10カ条」が示されたが、その内容についてはウェブ上で公開されているようなので、そちらを参照してほしい。         
 高齢者にとって嚥下能力が低下することによる「誤嚥性肺炎」の危険性が高まることも危惧されるという。この予防については講座の後に、言語聴覚士から予防法の紹介があった。(内容省略) 
       
 
 午後の生駒一憲副理事長による「65歳からのいきいき生活のために」の講座の方は、まず「フレイル(frailty)」「サルコペニア(sarcopenia)」について触れられたが、「フレイル」には「社会的フレイル(孤独、閉じこもりなど)」、「心理的フレイル(うつ病、認知症など)」、「身体的フレイル(サルコペニア)」の三つがあるが、生駒氏が問題にしたのは身体的フレイル=サルコペニアについてだった。そのサルコペニア状態になるのは、加齢や疾患によって食事の摂取量が減ったり、運動する機会が減少したりすることによって、筋肉量の減少⇒運動量の低下⇒食欲の低下⇒低栄養状態⇒さらに筋肉量が減少……と悪循環を引き起こすことだという。
 身体的フレイル=サルコペニアを予防するためには、一つは「食事」だという。栄養素をまんべんなく摂取することが必要だが、特に高齢者の場合は良質な「たんぱく質」、「カルシウム」の摂取が肝心だそうだ。
 次に「運動」である。ここで私は新しい言葉を知った。「運動」で大切なのは「有酸素運動」「レジスタンス運動」の組み合わせが大切だという。「レジスタンス運動」とは、初耳だったが、意味するところは言葉どおり「筋肉に抵抗(レジスタンス)」をかける運動をことである。
 私は以前にとあるところで、体の筋肉量を計測していただいたことがある。すると下半身は十分な筋肉量があるが、上半身はやや弱い、との診断結果が出た。その結果は分かるような気がした。私は日常的にけっこう負荷をかけたウォーキングに取り組んでいる。だから下半身の筋肉量はそれなりに付いているのだろう。しかし、上半身を鍛えるようなことはほとんどやっていないので結果は素直に受け止めることができた。
 そこで講義後に生駒氏に「有酸素運動は日常的に取り組んでいるが、レジスタンス運動を日常的に取り組む方法はないでしょうか?」と質問した。ところが紹介された運動はいずれも下肢を鍛えるものばかりだった。その後の理学療法士が紹介してくれた体操も下肢を鍛える内容ばかりだった。さて、上半身の筋肉を鍛えるにはジムでも通わねばならないのだろうか?う~ん。手軽の取り組める方法はないものだろうか??
        
 レポが長くなってしまった。二つの講座の後に病院の各スタッフがアドバイスしてくれた内容について割愛することにしたい。
 長~い、一日いっぱいの公開講座だったが、それなりに得ることができた市民公開講座だった。

“眠り” を考えるGOOD SLEEP FORRUM

2024-01-14 11:33:34 | 講演・講義・フォーラム等
  “眠り” を考えるというよりは、登壇者の顔ぶれを見て参加を決めた私だった。フォーラムの司会が今をときめく多田萌加さん、パネリストに野球解説者の元日ハム選手の鶴岡慎也さん、そして長野五輪金メダリストの原田雅彦さんである。これは「参加しなくちゃ~」とまったくミーハーな私であった。
     
 一昨日(1月12日)夜、近藤肇氏のお天気の話を聴いた後、同じ道民活動センター「かでるホール」において、東札幌徳洲会病院が主催する「GOOD SLEEP FORRUM」なる催しがあった。
 私は前述のように催しの告知のフライヤーを見て、内容より前に登壇者の顔ぶれを見て、即座に参加を決めたのだった。
 まずフォーラムで司会を務めた多田萌加さんであるが、NHK札幌放送局が制作する「北海道道」で鈴木貴之さんとMCを務めていて知ったのだが、その華やかな容貌は魅力であるのだが、それ以上に確かなコメント力が並のタレントとは違うなぁ、という思いで見ていた方だった。また、多田さんが斜里町出身という私と同郷のよしみという点も私が多田さんに注目している点の一つでもある。
         
 また、鶴岡慎也さんは意外といっては失礼だが、野球解説者に転身してからの確かな野球観と、そのことを分かりやすく伝える表現力は他の解説者よりはるかに優れている方だと私は見ている。
  
 そして原田雅彦さんであるが、彼のいくつになっても親しみ深い表情と、優しいコメントは多くの人々から共感を得ている。
 この夜も三人はそれぞれの個性を十分に発揮されていたように私には思えた。
 さて、肝心のフォーラムの方だが、前段で二人の医師のミニ講演があった。その一人は、札幌東徳洲会病院の後藤泰信医師医療法人RESM理事長の白濱龍太郎医師のお二人だった。お二人とも “睡眠” について医学的見地からさまざまな側面から解説していただいたのだが、結論的には “睡眠” のメカニズムについては未だ解明されていないことが多いという ことを説明されたと受け止めた。人間にとって “睡眠” は非常に大切なものであるのだが、質の良い睡眠、あるいは効果的な睡眠への導入方法などについて決定打は見出されていない現状だということをお話されたと受け止めた。
  
 そしてフォーラムは医師2人を含めた4人のパネリストによる話し合いを多田萌加さんが司会をする形で進められた。ここでの多田さんのパネルディスカッションを仕切る様子が見事だった。登壇者の意見をしっかりと受け止め、ディスカッションをリードしていた。
         
 その中から印象的だった意見を2、3紹介すると…、
 ◇アスリートの場合、若いうちは体力もあり、睡眠よりは技術を高めることに意識が向くが、加齢とともに休養の大切さに気付き、睡眠の質にも意識が向くようになった。
 ◇スキー選手の場合、ヨーロッパ遠征が多いためコンディションの作り方が難しい。良い眠りを得るためのお風呂(温浴)の機会も限られる。その点、長野五輪では我が庭で戦えたことが好成績に繋がった。
 ◇スポーツ選手として、大リーグで戦う大谷選手が10時間の睡眠時間を確保していることは学ぶべきである。
 ◇良い睡眠を得るためには、発酵食品の摂取、風呂や日本食を積極的に取り入れていくことも有効である。
 ◇寝付く方法として、呼吸を大切する。場所を変えてみる。あきらめも肝心。起きる時間を守る。なども有効である。
 等々、多岐にわたって良き “睡眠” についてのアドバイスがあった。
 私自身、“睡眠” については寝つきが良くないことへの悩みがある。アドバイスの中で「あきらめも肝心」という医師の言葉にはちょっと安心した思いがある。体質によって「人それぞれ…」というところか?あまり気にせず眠りに就こうと思う。

HBC近藤予報士 気象を語る

2024-01-13 19:35:25 | 講演・講義・フォーラム等
 アナウンサーを経験された近藤肇氏である。爽やかに、ユーモアを交え、近未来の気象を易しく語ってくれた。“地球温暖化” ならぬ、“地球沸騰化” が囁かれる今、近藤氏のお話を興味深く拝聴した。

 昨日(1月12日)午後、道民活動センター(かでる2・7)において北海道民放クラブが主催する講演会に参加した。
 北海道民放クラブは、北海道内の民間放送に従事した方々がリタイア後に親睦を図っている団体のようである。その民放クラブが定期的に研修会を開催していて、昨日はその一環として催されたようである。今回の研修会はHBC(北海道放送)のお天気キャスターとして長いキャリアを誇り名キャスターとして名高い近藤肇氏が招請され、「テレビで天気予報を見たくなるわけ」と題して講演された。
          
 近藤氏は当初HBCのアナウンサーとして入局し、その後気象予報士の資格を得て2006年から気象キャスターとして今日まで18年間務められているベテランである。お話はリタイアされた方々が高齢であることを意識したのか、とても平易に気象のことを語ってくれて、私にも分かりやすく聞こえてきたのは幸いだった。
 近藤氏はまず、昨年2023年の異常だった気象について私たちの記憶を呼び起こしてくれた。それによると、まず春のサクラの開花が例年よりかなり早く札幌で4月15日と異常に早かったことを指摘した。
 そして夏の記録的猛暑である。札幌で真夏日(30℃以上)を記録したのが30日、猛暑日(35℃以上)も3日を数えたという。
 秋もかなりの高温で推移し、初雪を記録したのも11月11日と平年より10日遅かったそうだ。
 そして日本はこの100年で平均気温が1.35℃上昇したということだ。
 ここで近藤氏は面白いデータを示してくれた。それは気候変動について各国の科学者が集うIP CC(気候変動に関する政府間パネル)が発表した文言の変遷である。それは「地球の温暖化は人類のせい?」という問いに対して、報告年度ごとに次のように変遷してきたという。
◇第3次報告(2001年発表) 原因が人間活動である「可能性が高い」
◇第4次報告(2007年発表) 原因が人間活動である「可能性が非常に高い」
◇第5次報告(2014年発表) 原因が人間活動である「極めて高い」
◇第6次報告(2021年発表) 原因が人間活動である「疑う余地がない」
 国連のグレイティス事務総長が「もはや地球の気象は “地球温暖化” ではなく “地球沸騰化” の時代に入った」というのも頷ける話である。
 近藤氏は、続いて今後の地球の気温の上昇について言及した。それによると、日本政府が遅ればせながら2020年に「2050年までにカーボンニュートラルを目ざす」と宣言したが、世界各国が同様の取組みをしたとしても21世紀末(2100年)には現在より1.5℃以上の上昇は避けられなく、もしそうした対策が取られなかったとしたら4℃から5.7℃の上昇が見込まれるという。(これは近藤氏の予測ではなく、世界各国の気象学者の予測を紹介したものである)
  
 このことを聴いて暗澹たる思いをしたのは私だけではあるまい。昨年夏のあの暑さ以上の暑さが毎年夏に訪れることを想像しただけでも暑苦しくなってくる。さらに私たちの子孫は今以上の暑さの中で生きていかねばならないということになる。
 手をこまねいているばかりでは何ら解決しない。私たちが今できること、それは取るに足らないことかもしれないが、それでもやらねばならないことを突きつけられていると感じた一瞬だった。
 その後近藤氏は、自らのお天気キャスターの日常について紹介してくれたが、その部分は割愛したいと思う。
  
 最後に近藤氏は有益な情報を提供してくれた。それは私たちが日々の気象を知る手段として有益なアプリを紹介してくれた。それは「今後の雨」、「HBC天気」、「キキクル」というサイトである。興味のある方はぜひ一度アクセスしてみてほしい。私が試したところ、気象庁提供の「キキクル」はかなり良くできたアプリのように感じた。試してみてください。


DVDフォーラム ハンセン病差別を考える

2024-01-12 12:32:32 | 講演・講義・フォーラム等
 人間の性とも、宿痾ともいえる “差別” の問題はいつの世にも存在する。その中でもハンセン病患者そして家族に対する差別には想像を絶するものがあったようだ。ハンセン病患者の遺族のお一人だった医学者がその軌跡を追う。

 昨夜(1月11日)、札幌市弁護士会館においてDVD「仙太郎おじさん!貴方は確かにここにいた~蘇るハンセン病患者とその家族」を観て、DVDを作成した国立重監房資料館の黒尾和久部長を迎えてお話を伺うDVDフォーラムに参加した。
   
   ※ ゲストで来札し、DVD作成の裏側を語ってくれた黒尾和久氏です。

  DVDは獨協医科大学の木村真三准教授が、国立重監房資料館の黒尾氏と出会い、木村氏の大叔父(木村氏のお爺さんの兄)がハンセン病患者(木村仙太郎)だったことを知り、仙太郎おじさんの軌跡を追う内容である。
 仙太郎さんは1901(明治34)年にハンセン病を発症し、以来自宅療養をしていたが、1931(昭和6)年に「癩予防法」が制定されたことにより、ハンセン病患者は強制隔離されることになり仙太郎さんも国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に収容された。そして収容から2年後に死亡された。
 木村真三氏が仙太郎さんの存在そのものを知らなかったのは真三氏の父親が差別を恐れて子どもたちには仙太郎さんの存在を隠していたためだった。差別の実態についてDVDでは詳しくは触れなかったが、木村真三氏が仙太郎さんの生前のことについて知ろうと生前住んでいた地域の方々に聞いたとき、現代になってもハンセン病そのものに触れることを拒否する人がいたところに問題の深刻さを見る思いだった。
 木村氏は仙太郎さんが療養所内で自死したのではないかと危惧していたが、調べた結果結核が原因で死亡したことが分かり安堵した場面もあった。そして、療養所内に保管されていた遺骨を引き取り自家のお墓に葬り、戒名も付けていただきひと段落するという内容のDVDだった。
   
   ※ 大叔父の仙太郎さんの軌跡を追った木村真三氏です。

 DVD放映後にゲストで来札した国立重監房資料館の黒尾和久部長は「しかし…」と語る。30年間も自宅療養を続けていた方が、療養所に収容されてわずか2年間で死亡したのは、劣悪な療養所環境にあったのではないか?と疑問を呈した。それは私たちの想像以上に劣悪の環境だったようだ。
 また、黒尾氏は国がなぜハンセン病患者を隔離しようとしたかについて、当時ヨーロッパ諸国ではすでにハンセン病は克服されていたこもとあり、ハンセン病を発症するような国は後進国とみなされることを恐れた国が、諸外国から隠ぺいしようとしたことも背景にあったと解説された。
 ハンセン病については新薬の効果もあり、現在では新たな患者はほとんど発症していないとのことですが、元患者の方が800余名存在するようである。問題はその800余名の方はもちろんのこと、過去の患者に対して不必要な避妊手術を施したりしたことに対する補償問題がいまだに尾を引いていて時々新聞紙上で目にすることがある。国の過去に過ちに対する誠意ある対応が求められているのではないかと思う。
 さて冒頭の問題提起であるが、我が国ではハンセン病だけでなく、部落問題、アイヌ問題等々、差別の問題が根強く残っている。また、子どもたちの間で巣くう「いじめ問題」も差別の一種であろう。ヒトは自らの心に余裕がなくなった際に、他に弱みを見つけてそこを攻撃するような行為に走ろうとする場合が多いように思われる。
 まあ、私が言うほどコトは簡単ではないのは承知のうえで言うのだが、ヒトが心に余裕が持てるような教育、環境、そして施策などが整備されることも差別をなくす、減少させる方途の一つかなぁ、と考えた今回のDVDフォーラムだった。