鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

品川 正治さんの公開授業(その2)

2007-12-28 23:37:42 | お知らせ

 お待たせしました。

 気を取り直してサイド講演の内容を入力しましたので、3回に分けてお知らせさせていただきます。自分だけのものにしておくのはもったいないので、少しでも多くの人に知ってもらいたくて。

 

 「一身にして二世を生きている。」と自分のことを表現していました。つまり、24歳までとそれ以降の戦後の時代の二つ。子どものときから戦争時代で、正真正銘の「戦中派」といいます。高校(三高)2年生の時に兵隊として戦場へ行きました。単に軍国少年として戦場に行ったのではなく、この戦争は本当に正しいのかという自分の思想形成中に戦地にいったということで「戦中派」ということだそうです。

 高校の2年の間に何を勉強するかは学生にとっては大きな問題でした。学校も先生方も寛大さを持っていたと言います。授業終了後、生徒ではなく先生の方から生徒に対して深くお礼をしたというのです。

 その当時、もう既に召集令状をもらい、あの先生の授業を聞きたいという学生がいたからです。

 学生の要望として、三好達治の話しを聞きたいといううことがあり、学校がお願いして話しをしてもらいました。五回授業を行い、5回目の授業の最後には号泣したそうです。「君たちを死なして、詩を作る、それが人生か」といって、うずくまってしまったとか。

 品川さん前後の人にはそういう経験はなく、いわば特殊な生活があった。

 

 品川さんの願望として、カントの「純粋理性批判」を原書で読んで死にたいという願望があり、そのことを先生に話したら、余白がびっしりと書き込みで埋まっている先生の本を借りることができて、なおかつ先生がドイツ語まで教えてくれて、何とか読了しました。

 読了した2週間後に召集、高校2年生で現役の召集で、鳥取の連隊に入営しました。

 連隊では、連隊全員が集められたところで、連隊長のあいさつがあり、この者たちは死にに行くのだから、いじめは許さない、いじめたやつは叩き切ると言ったそうです。だから軍隊に入っても新兵いじめは経験しなかった。これも珍しいこと。しかし、入営後2週間で中国の前線に送られました。

 

  品川さんは、今まで戦争体験を話してこなかったそうです。しかし、83歳になって、今言わないと誰も言わなくなると思い、話し始めました。

 話さなかったことには、大きな理由がありました。「戦争体験ほど人様々なことはない。」 

 ニューギニア、レイテ、インパール等の南方戦線にいた人を前にしてはとても話せない。そこでは70%の人たちが餓死し、動けなくなって「さようなら」といった日が戦死の日となったといいます。

 また、硫黄島や沖縄では玉砕しか道がなかった。それでもうその心情を察すると戦場の話はできなくなる。そういう人たちはほとんど死んでしまった。

 戦争の悲惨な話しをしても、「そんな戦場にいて、どうしてあなたは助かったのか」という一言、それを言われるともう後は続かない、何も言えなくなる。60年間のトラウマとなっている。話せといっても難しいのだと。

 

  品川さんも中国戦線で交戦中、隣の壕にいて被弾して苦しんでいる戦友を助けられなかったことがトラウマとして残っている。

 戦争の記録は非常に難しい、戦争の記憶は皆同じではない、と。中国戦線では8月15日は何の意味も持たない。国共内戦のため、11月まで戦闘状態が続いたから。このことは「蟻の兵隊」に詳しく載っている。

 品川さんの部隊は11月に武装解除され、捕虜収容所に入れられます。そこでものすごく激しい軍内部での激論があったそうです。陸軍士官学校での将校たちが、日本政府を弾劾するという署名活動を始めたから。日本政府は8月15日を終戦とし、敗戦とは言わなかった、これでは再起することができない、ごまかしは許せないという檄文をつくって署名をはじめた。

 これに対して、戦闘部隊は真っ向から反対して、「二度と戦争をしない」ということの”終戦”でいいじゃないか、と。結局は戦闘部隊の考えが主流となり、署名活動はなくなった。     (以下明日に続く。)


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