鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

健診と第4楽章と

2010-10-19 22:40:18 | お知らせ

 何か急に寒くなってきました。こたつには電気が入っています。最高気温も17.6度とか。帰りの自転車はコートが欲しくなるくらいです。いよいよ寒さも本格的になり、真冬を迎え、春が恋しくなるのです。いつ頃からでしょうか、寒いのが嫌いになったというか、寒さに耐えられなくなったのは。50歳を過ぎた頃からかな。脂肪がもっとつけばいいのかも。体重もずーと55キロをきっているし、まあ身長との関係でいけばいいくらいなのでしょうか。

 ということで?明日は健診の日です。一年に1回はきちんと受診していますが、バリウムは自慢じゃないですが、1回も飲んだことがありません。この頃のは飲みやすくなったとかいいますが、バリウムの味は分かりません。

 そう言えばがん検診は全て受けていないかも。別に、近藤何某先生の影響というわけではありません。X線は受けていますが、これは結核検診のため。血液検査はきちんと受けているし、成分献血も何回もボランティアでやってきました。いずれほとんどの人間はガンで死ぬでしょうから、その時はその時、従容として事実を受け入れて死んでいければいいかなあと思っているのですが、実際にガンを宣告されたとき落ち着いていられるか、その自信はまったくありません。

 死ということで言えば、今日は魯迅の74回目の命日とか。博物館の敷地内にある魯迅の碑にはもう何年も行っていないなあ。碑を建ててから30年が経っているといいます。

 そう言えば中国語版の魯迅全集(30数巻)を持っていたのですが、去年でしたか他の諸々の本とともに売り払いました(これに値段がついたのかどうかは不明です。)。定年後に中国語で魯迅を読みたいものだということで揃えたのですが、NHKの中国語講座も数ヶ月で挫折するようではとてもとても無理な話しで、手放してよかったのかも。竹内好の魯迅の翻訳とかがあるからそれで十分でしょう。「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じい」でしたか、何とも意味深い言葉です、いかにも魯迅らしい。

 絶望と希望は同じだというのならば、歓喜はどうなのでしょうか。日本映画専門CHで”のだめカンタービレ 最終楽章(前編)”をやっていました。1時間20分くらい見ましたが、始まって30分頃に、のだめが大好きな先輩の指揮でピアノを弾くということで舞い上がり、パリ中を駆け巡るのですが、勿論マンガチックにです、その時のバック音楽は”ベートーベン交響曲第九番 第4楽章”の合唱でした。実に効果的に合唱が使われていました。

 どの合唱団の合唱かは分かりませんが、今私が習っているのとはまた微妙に異なります。私がよく聞いている”第九”のCDの合唱はベルリン国立歌劇場合唱団ですが、これとも少し異なります。指揮者が違えばそうなるのでしょうが、そう考えると指揮者は凄いですね。そういえば10月3日の山下先生と12月23日の小泉先生でも、でさえ指導が微妙に異なるのですから、何か不思議な世界でもあります、音楽の世界は。

 不思議といえば”鬼太郎”ですか。これは写真だけにしておいて、昨日か、面白いものをブログで見つけたので紹介します。

         

 「singspielerの日記」ですが、2009年1月18日のブログです。大船渡市のホールのこけら落しで山下先生の指揮で第九を聴いた(演奏は仙フィル)のだそうですが、その時の山下先生の言、『第一楽章、第二楽章、第三楽章ときちんと聞いておくと、それを全否定して立ち現れてくる第四楽章の歓喜の歌を歌う意味が見えてくる。』と。これを読んで、そうかそういうことなのかと目から鱗といいますか、疑問が解けたように感じました。

 私も、ダニエル・バレンボイム指揮の第九のCDを聴いていると、第1楽章と第4楽章なら何となく関連性が感じられたのですが、第2と第3楽章は一体どういう意味をもっているのか、なぜこういう旋律が間にはいっているのか、何を言おうとしているのか、全く分からず納得いきませんでした。

 でも第1から第3楽章は第4章によって全否定される運命をもって先に演奏されるのだということ、歓喜のための露払いということを思えばそれなりに聞いていられます。

 ということで今日はお仕舞です。何とかつながりました。


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