きょうもきのうと似たような天気の推移となっていますが、午後になってからはきょうの方が暖かくなっているようです。朝方は寒かったな。午前5時はマイナス1.0度で、7時はマイナス0.5度です。
きょうは朝の見守りに立ちました。空気が冷たかったので、朝だけでも下ズボンを履こうかなと思ったのですが、強く思ったのですが、いやいやそれではいつまでたっても卒業できないのでやめておけ、我慢しろという意見が勝ちました。
ということで、下ズボンは履かずに交差点に立ちました。そしてきょうは中学校が休みな日でした。6日ですか、卒業式があったもので今日が振り替え休日扱いでした。
ということで、今朝は小学生が中心で、それに女子高校生も加わったのですが、中学生がいなくても子どもたちは多いなと感じ、嬉しくなりましたね。やはり、地域に子どもたちの歓声や動き回るさまが見られないとさみしいものです。
そして、一つだけ嬉しいことがありました。小学生にひょんなことで「今何歳?」と質問しました。ちょっと小さく感じたからかな、ひとりだけでさみしい感じだったからか、声がけしたものです。
回答は「9歳」ということでしたが、ついでに私を指さして「何歳に見える?」と半ば冗談で聞いてみました。その答えは、小学生として”忖度”したのでしょうか?『50歳』と言われました。
冬用のオーバーコートを着て、帽子をかぶって、マスクを深くしているからかもしれません。確かに顔の大部分を隠しているという状態ですからね。それに小さい子どもにとっては、50歳ということもかなりの高齢であるという範疇に入るのかもしれませんね。
このところ、東日本大震災関連の記事やニュースが多くなっていますが、昨夜のフジテレビ系列の「Mr.サンデーSP」ですか、妻さんが見ていたので、私はPCをいじりながら何気なく見ていたのですが、途中からくぎ付けになりました。
津波被害の状況が克明に記録されていたんですね。なんか初めて見るかのような印象を持って見ていました。まさに固唾をのんでといった表現がぴったりかな。
そして、きょう午前、昨夜録画しておいたNHKの番組を見ました。NHKBS1「映像記録東日本大震災 発災からの3日間」という番組です。これは、私が見始めたところに妻さんが下りてきて一緒に見ることになったわけです。
津波被害と原発避難の様子が流れましたが、声が出なかったですね。こちらの映像もショッキングなものが多く、圧倒的に迫ってくるのです。我が家に限らず、ほとんどの家庭では地震後停電になりました。2,3日で復旧はしましたが、被災直後の被害状況等はテレビで見ることができませんでした。
妻さんは涙ぐみながら終わりまで見ていました。10年前にこういうことがったのです。もう10年、まだ10年、たった10年、どれもが一致するような気がします。時と場所によって受け取り方は異なってきます。
(この2枚はきのうのものです。休工です。)
テレビを見ることができなかったということで、われわれ夫婦は蚊帳の外、自分たちのことしか考えていなくて、何という能天気だったかと恥じ入るばかりです。このブログでも何回か書きましたが、3月14日から夫婦での台湾旅行を計画していたのです。
11日の午前はそのための靴を買って、お昼を食べて帰宅して一服している時に巨大地震に襲われました。長い長い長い大きな揺れが続き、立ち上がれず、もうだめだ、家がつぶれると思ったのに、その後落ち着いてからは、こんなことを考えていたのです。
何か仙台空港にも津波が来たようだけれど、14日までには復旧するだろう、だから台湾に行けるだろうと思っていたのです。すべて自分に都合よく、甘く考えているのですね。いくら惨状を知ることができなかったとはいえ、同じ宮城県でこういう状況です。本当に恥ずかしく思っています。申し訳なさでいっぱいです。
そして、いまでもしっくりきませんが、自分は被災者なのか? 被災者ではないのか? 被災者と名乗っていいのか? どうとらえるべきなのか? 同じ日本でも遠くの府県に住んでいる方から見れば 被災者 なのかもしれません。
でも、自分で自分のことをしっくりくるような括り方をすることができません。中途半端なのです、本当に。ずーとそういう気持ちでした。
だからこそ、自分としては10年前のことを決して忘れないこと、そしてそのことを自分なりに伝え続けていくこと、これだけは生きている限り守っていこうと思っています。