津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ブログの責任

2008-05-12 17:20:24 | 徒然
 此のブログの開始は2004.7.24で、ブログは通算1,024回となった。改めて眺めてみると、思い違いや間違いが多くみられ、冷や汗ものである。間違いをコッソリ訂正しようかとも思うが、それは責任放棄に等しい。歴史のカテゴリーに482件ある。「朱書き訂正」をしようと思い立った。人様のサイトやブログを見ていると、間違いが目についてしょうがない。時々当方サイトが引用されていることも有り、間違いは間違いとして過去の記録を抹消することなく、訂正をしようと考えての事である。読み返すだけでも一苦労だし、何ともお粗末な間違いなどを堂々と曝してきた図々しさに赤面である。
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清田家系図修正

2008-05-12 09:14:31 | 歴史

            +--五郎大夫------又右衛門
            |
            |             細川忠興
            |               |           
            |               +---------+--立孝(宇土細川家)
            |               |       |
            |           +--幾知(圓通院) +--興孝(刑部家)
            |           |
            |           |          +--外記(帰農)
            |           | 石見守    |                 主馬・子
清田掃部鎮忠----+--主計鎮乗----+--七助乗栄---+--主馬===左近右衛門===源左衛門
                        |                    ↑
                        +--与三右衛門(刑部家附)    |
                        |                    |
                        +--左近右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・

 圓通院は石見守の姉であることが、清田家の御位牌により確認できている。
 刑部家附となったのは、主計二男・与三右衛門である。
     石見乗栄次弟・与三右衛門 (八百石--正保四年 細川興孝宛行状) 
     長年の江戸証人(人質)を勤めた細川興孝の肥後下着(寛永十七年六月)にあたり、
     細川忠利より目付けを仰せ付けられ後代々刑部家家臣。
     尚嫡子・采女宛に与三右衛門と同じ日付の四百石興孝の宛行状がある。

                           
コメント (1)
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