津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

爪の端

2008-05-29 17:41:52 | 歴史
 「爪の端」という言葉があるが、国語辞典などをひも解いても出てこない。「細川は徳川将軍家の爪の端」というような使い方をするのだが、「徳川家の血筋の末端にある者」という意味であろう。忠利が将軍秀忠の養女(十一女)・千代姫を、正室に迎えているからそういわれている。正確を期すると、千代姫は小笠原秀政の息女である。生母は徳川家康の嫡男信康の女・登久姫である。家康の曾孫という事になる。信康は生母・築山殿(今川義元・姪)と共に、家康命により殺された。その原因となったのは信康正室(信長女・五徳)が、父・信長に今川氏情報をもたらした事による。登久姫は信長の孫、千代姫は曾孫である。

              小笠原秀政       蜂須賀至鎮・室
                  |----+--万姫(家康養女)
家康---+--信康---+--登久姫  |        
     |       |        +--忠脩---長次(中津藩主)
     |       +--熊姫    |
     |            |    |
     |        本多忠政   |
     |                 +--忠眞(小倉藩主・小笠原嫡家)
      |                 |
     +--秀忠---+--家光    +--千代姫     
             |         |
             |         +--忠知(初・杵築藩主、三河吉田--岩槻
             |         |      --遠州掛川--陸奥棚倉--肥前唐津藩)
             |         |
             |         +--松平重直---英親(杵築藩主)
             |         |
              |         +--その他兄弟略
             +==千代姫
                   |
       細川忠興------忠利-----光尚

 「爪の端」は数えたらきりがない。その広がりは相当な数になっている事だろう。徳川将軍家の女たちの婚姻による族党支配は、【家康の実娘五人・養女十人、秀忠の実娘五人・養女十一人、下って家斉の実娘・二十七人、家慶の実娘十三人・養女二人などによる。(鈴木理生著「お世継ぎのつくりかた」から引用)】

 細川家における「爪の端」という言葉が、何時頃登場したのかを調べているが、未だ正確な処に行き着かない。何れにしろ忠利、光尚代のことだろう。

 蛇足だが鈴木氏の同著の中の、「家康を中心とした縁組一覧」なる図は、大名諸家との縁組を表しているものだが、忠利室・千代姫が本多忠政の娘であったり、加藤清正正室清浄院(家康十五女)が加藤忠広室とされていたり散々である。(校正がなってませんよー)
 
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上着座之上席-5 楯岡源太左衛門

2008-05-29 10:46:19 | 歴史
 肥後細川藩士楯岡氏は旧最上氏の一族である。

 最上義守---+---義光(出羽山形57万石)---家親---義俊(改易)
         |
         +----女
         |   |---伊達政宗
         |   ●
         |
         |  細川家御預
         +---光直---+---女(村井内蔵助室)
                  |   細川家召出
                  +---定直-----寛直---定之---定昌 (小文吾家)
                  |   孫一郎             源太左衛門
                  |
                  +---時直-----時清---時春---定春 (三郎兵衛家)
                       蔵之助
 
■甲斐守光直(哲斉)は最上義俊一門家老・一万三千石・楯岡城主
   元和八年十一月二日、最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事ニ付而
   御国江之御書
             
  民部(小笠原民部)者急差下候、最上浪人楯岡甲斐と申仁我等ニ被成御預
  候間、跡より可差下候、甲斐守下着次第、百人扶持相渡可申候、宿ハ何レ
  ニても寺を可申付候、下国之上家ハ可申付候、当分之兵粮塩噌以下見計可
  申付候、謹言。
  直々、甲斐守大阪よりも船中廿日分為賄百人扶持相渡候へと申付候、又甲
  斐守人数上下百弐三十人も有之由ニ候、可有其心得候、以上。
       十一月二日     内 忠利   (綿考輯録・巻二十九)
          
■寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
  最上源五郎(義俊)家来楯岡甲斐守(義久)、元和九年亥之正月ニ越中守
  (忠利)ニ被成御預ケ候、寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病
  死候、其子孫一郎歳廿二、弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井
  内蔵助と申者ニ女房ニ遣シ、于今熊本ニ罷有候事     
               大日本近世史料・細川家史料十五 p162)
   
■孫市郎・定直
  肥後入国後御知行千石被下、座配御左之着座二被仰付、慶安の比よりハ
  松野・木下・津川・楯岡と次第いたし四番座ニ相成・・・・・
                        (綿考輯録・巻二十九)
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