津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

上着座之上席-7 氏家甚左衛門

2008-05-30 18:31:57 | 歴史
 家祖氏家直元(卜全)は美濃三人衆として高名、長島陣で討死。二男元政近江15,000石と代官所
50,000石を預かる。関ヶ原で西軍に付き高野山立退き、興秋舅の故か慶長六年召出。元高は父の死の際はわずか四歳にて跡目。嗣陰令がいう甚左衛門は五代頼久と思われる。沢村大九郎友朗の二男である。   
                                
細川忠興---+---忠隆               
        |                
        +-----興秋(与五郎) 
        |          |            末子  
        +--忠利--------------------------元知 
                    |     南条元信室    ↓         
                    |-----------鍋 ==元知   
                    |               |---米田元庸
氏家卜全---+--元政---+--女       米田是長---吟
        |       |        室・南条元信女
        |       |
        |       +--元高---元将==元広==頼久(甚左衛門)
        |       |
        |       +--女・松野右京室
        |
        +--行広

 元政女が細川興秋室、忘れ形見の鍋は南条元信室となり、細川忠利末子・元知を養嗣子とする。綱利による陽明学徒の追放にあたり諫言、不興を買い永蟄居。息元庸は綱利命により母方の米田家(家老)を家督、南条家は絶家となる。興秋の血は米田家に継承された。
      
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上着座之上席-6 下津久馬

2008-05-30 15:40:12 | 歴史
 細川家家臣下津氏は、下津棒庵の子・宗政を初代としている。棒庵は加藤清正の外交部門をにない、「時慶記」にもみえるように、京・大坂での活躍が伺える。父親は公卿・久我右大臣道堅であり、棒庵(宗秀)は三男、下津宗政の弟・通廉(棒庵・二男)は東久世家を興した。
  コガ
久我右大臣道堅---+---敦通---通世---通前---尭通---広道---通名---通誠--+
             |                                      | 
             |         +------------------------------------+
             |         |
             |         +---惟通-----通名---女・由婦
             |              |           |
             |        細川綱利養女       細川重賢
             +---●
             |              将監   縫殿   久馬      久馬
             +---下津棒庵---+---宗政---宗辰---通久---+--通章
                         |                  |      久馬
                         |                  +---某---通政
                         +---通廉(東久世家祖)

 ここでは下津棒庵と表記したが、同家先祖附によると棒庵には苗字を冠しないとされている。
久我家と細川家の係わりは濃密なものがある。通兄の孫・信通女は細川致政の室、信通の子・通明の室となったのは細川治年女と云った具合である。女優・久我美子(クガ)には細川家の血が流れている(?)かもしれない。

 話はすっかり横道にそれたが、嗣陰令がいう下津久馬は果たして何代目様だろうか。
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