津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・入江傳十郎家

2008-05-14 20:33:57 | 歴史
 HARIMAYAさんの「武家家伝-入江家」には、【元秀には景秀と景光の男子があり、景秀は高槻落城後しばらく流浪していたが、勝龍寺城主細川藤孝に召し出されて丹後に供して細川家の家臣に列した。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、細川幽斎が田辺城に籠城したとき、景秀は大手口を固めて活躍した。弟の景光も細川氏に仕えて忠興の近習を勤め、天正十年、忠興が一色義定を手討ちしたとき、同十八年の小田原の役のときも忠興の側近くにあった。かくして、元秀の子たちは細川家に仕えて、近世に至ったのである。】と紹介されている。「丹後以来」の家であり、兄景秀は「田辺城籠城衆」として、翌年忠利(当時忠辰)から、懇のお言葉を戴いた。

 細川家の「綿孝輯録」によると、景秀については「淡路」として紹介されているが
    入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 
                     (綿考輯録・巻28)
      折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、
      於田辺二長々苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、
      爰許長々之義迷惑推量之外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺
      有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略ハあつかいと申候条、
      可為其分と存事ニ候、恐々謹言
      五月三日        内記忠辰(忠利)御判
                      入江淡路殿 まいる

 豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子に勝る働有しと也、父は左近将監光秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たりしといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪して普門と云、慶長十九年六月病死(綿考輯録・巻5)

 又、弟景光については、入江平内入道真斎として次のようにあるが、絶家したものと思われる。

 淡路弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
      立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明(綿考輯録・巻14)


  左近将監      淡路守      徳左衛門
    元秀---+---景秀---+---元景---+---景就
         |   |   |        |
         |  乃美氏  +---正勝   +---正照
         |
         +---景光(平内入道真斎)
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明日本屋さんへ 〆て3,465円也

2008-05-14 18:19:57 | 書籍・読書
 ■ 日本・根拠地からの問い 姜尚中・中島岳志 毎日新聞社 1,680円
    「対談は熊本『神風連の乱』から始まる」というキャッチコピーが気になる。
 
 ■ 熊本城歴史と魅力 富田紘一著 熊本城顕彰会刊行 1,050円
    熊本城研究の第一人者による新刊。写真満載だとか・・

 ■ 幕臣達の明治維新 安藤優一郎著 講談社現代新書 735円
    「政治を握るのは勝者、文化を創るのは敗者かもしれない」とする、長山靖生氏の書評にひかさ
     れる。
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げぎょ

2008-05-14 17:44:09 | 建築
 悪友が孫をつれて、熊本城本丸御殿を見に出かけてらしい。鬼瓦の下部、破風板の上り詰めたところにある、「変な飾り物(孫君の言)」に目が止まったらしい。分からないまま帰宅、私に聞いてきた。「そらげぎょたい(それはげぎょです)」と答えると、「なんやよら(何よそれは?)」と聞き返してくる。いろいろ説明するが満足の行く回答にはならなかった。慌ててぐぐって、二つのサイトを紹介、「自分で調べろ」と悪態をついてやった。

 本丸御殿フォトギャラリー www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=650
 懸魚の形態と由来     www3.ocn.ne.jp/~toto

 翌日の悪友のメール「孫曰く、ギョギョ・・」・・・何たる事だ。

 
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兼見卿記

2008-05-14 15:06:15 | 歴史
 『兼見卿記』は、続群書類従完成会(今はない、八木書店出版部が継承)が刊行したが、これを所蔵して日々眺めるという事は困難の極みである。また、これとて全巻発刊されているものではない。
 ありがたい事に東京大学史料編纂所の「大日本史料総合データーベース」で、元亀二年十二月十七日から文禄元年十二月三十日までを見ることができる。文禄・慶長年間のものについては、刊行物はないとおもっていた。これについてぴえーるさんのブログでは、「文禄二年正月から慶長二年十二月までのものが、2002年から2007年の間9回にわたり、岸本眞美氏により『ビブリア』と言う雑誌で活字化されている」ことを報告されている。
 
 一昨日、昨日とそのぴえーるさんのブログ「えんちゅるでいげん爺の三食繰言」
            (http://d.hatena.ne.jp/muxia/) に興味深いレポートが成されている。

 一つ目は文禄三年十二月四日の記事、
「幽斎女加賀が、木下延俊に嫁ぐ際、あさ日殿の猶子となるよう北政所より言われ、それは迷惑だと答えたが、どうしようもなく決定してしまった」といったものだ。「朝日」とは、豊臣秀吉の異父妹「朝日」(徳川家康・継室)であろうとされる。

 今一つは「兼見の孫娘が長束正家の弟又助の子に嫁いだ」という記事だが、これは我々が承知しているものとは異なっている。何れが真実なのか興味深い。

 何れも私にとっては初見の史料であり驚いている。原文が紹介されているので御覧いただきたい。
上記二件のレポートも、『ビブリア』を求められての事と思われるが、いつもながらの卓見に脱帽である。

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