過日「日本談義」の昭和26年11月号に、宇野廉太郎氏の「小笠原少齋の墓に就いて」という一文を見つけてコピーをしてきた。その年の8月19日の新聞に「小笠原尚(ママ)齋の墓を発見」という記事についての私見を述べておられる。氏は昭和3年にこれを発見しておられる。「今更なにを・・」という思いであられたろう。
話は少齋のお墓の話からそれるが、この一文に「此一挙(ガラシャ夫人及び忠臣の死)によりて、大坂城中評議一変し、諸侯の妻拏を取ることを止めたといふ事である」と氏は記されている。長く信じられてきた事柄であり、揚げ足を取ろうというものではまったくない。
私は「加藤清正『妻子』の研究」を読み、又著者・福田正秀氏の講演を拝聴し、清正正室清浄院の苦難の大坂脱出行を知った。豊前に着いた清浄院の熊本入りを手助けしたのは、黒田如水である。黒田長政夫人も同様の脱出を試みていた。
人質となった大名夫人もいる。同書によると池田輝政・藤堂高虎・有馬豊氏・加藤嘉明夫人等とある。
時を経て歴史の真実が明らかにされ、絡まった糸がほぐされて一筋のものと成ってくる。未だ虚説を以っての所見に邂逅する。宇野廉太郎氏は一文の最期に「若し誤りを後世に伝える事があっては実に遺憾千万(中略)筆者の記述にも誤があらんも保し難い、何卒御気付の諸賢に、謹んで御教示を願・・・」と記される。歴史の勉強はこの一言に尽きる。
話は少齋のお墓の話からそれるが、この一文に「此一挙(ガラシャ夫人及び忠臣の死)によりて、大坂城中評議一変し、諸侯の妻拏を取ることを止めたといふ事である」と氏は記されている。長く信じられてきた事柄であり、揚げ足を取ろうというものではまったくない。
私は「加藤清正『妻子』の研究」を読み、又著者・福田正秀氏の講演を拝聴し、清正正室清浄院の苦難の大坂脱出行を知った。豊前に着いた清浄院の熊本入りを手助けしたのは、黒田如水である。黒田長政夫人も同様の脱出を試みていた。
人質となった大名夫人もいる。同書によると池田輝政・藤堂高虎・有馬豊氏・加藤嘉明夫人等とある。
時を経て歴史の真実が明らかにされ、絡まった糸がほぐされて一筋のものと成ってくる。未だ虚説を以っての所見に邂逅する。宇野廉太郎氏は一文の最期に「若し誤りを後世に伝える事があっては実に遺憾千万(中略)筆者の記述にも誤があらんも保し難い、何卒御気付の諸賢に、謹んで御教示を願・・・」と記される。歴史の勉強はこの一言に尽きる。