津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

野出の里

2008-05-18 18:08:00 | 徒然
 昨日のことである。山影に落ちていく夕日が茜色に輝いて、それはそれは素晴らしかった。我が家の二階の窓からの展望である。西の方に連なる山並みの、山々の名前を私は良く知らない。先ほどから磁石やら地図を持ち出して「夕日の落ち所」を探している。我が家から真西方向に「金峰山(きんぼうざん)665m)がみえる。地図ではその右手に荒尾山(446m)、小萩山(412m)が見える。うす雲の中を落ちていく今日の太陽を確認すると、どうもその二つの山では無いように思える。改めて地図を眺めると、少し右側にそれらのずっと山向こうに、二ノ岳(685m)、三の岳(681m)がある。これだ間違いない。

 実は過日所用で金峰山から「野出」というところを車で走った。夜中である。本道を離れてわき道に入ると、九十九折の坂道の連続である。しばらく走ると、思いがけない景色が目に飛び込んできた。電照栽培のための物凄い数の照明で、谷間が浮かび上がっている。あまりの明るさに目がくらみ、道筋がはっきりせず思わずブレーキを踏んだ。何を栽培しているのか。確認の仕様もないが、こんな形で我々の生活が支えられている。贅沢な事だ。

 その「野出」を改めて地図を眺めると、「夕日の落ち所」二ノ岳にあることが分かってまたまたの驚きである。あの電照栽培の畑の明かりを目印に、太陽は導かれたいるのではないかとふと思った。
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兼見と幽齋

2008-05-18 06:07:10 | 歴史
 細川幽齋の生母・智慶院は吉田神道神主家・従二位吉田兼倶の子・清原宣賢女である。

  吉田兼倶---+--兼政---+--兼満===+--兼右---+--兼見---+--兼治
          |                   ↑   |          |  
          +--●                |   +--梵舜      |
          |                   |               |
          +--宣賢---+--兼右・・・・・・・・・・*               | 
                  |                           |
                  +--智慶院------幽齋-------------+--伊也
                    
「兼見卿記」の吉田(卜部)兼見は本家を相続したが、宣賢からすると幽齋と同様孫であり、二人は従兄弟の間柄である。兼見は天文四年(1535)生まれ、幽齋は天文三年(1534)生まれ、付き合いは兄弟のようなものであったろう。そのようなことを考えると、「兼見卿記」に幽齋の消息が少なからず見える事はよく理解できる。

 3/10ブログ「幽齋女・伊也の子供たち」に、兼治と伊也の子供たちを記したが、こうして再掲してみると、吉田神主家と細川家の親密な関係が浮かび上がってくる。そうして伊也の悲しい思いで(先夫一色義有の誅伐)も、平穏な生活や子供らの成長を見て随分と癒されたものと思われる。

  一、兼英 兼治家督
  一、萩原右衛門督兼従
  一、愛宕山福壽印住持幸賢法印
  一、長束大蔵正家男・半左衛門室(細川家臣田中氏祖)
  一、阿野中納言室
  一、船橋従二位秀相室
  一、小笠原備前長元室・たま(細川家臣) 長基・長光とも・・迦羅奢夫人殉死少斎嫡子
  一、清田石見室(細川家臣)
               「米田家臣中山宗俊覚書」より 
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