■細川利重が、寛文六年兄綱利知行より35,000石の内分を受けて創立されたのが新田支藩。維新の動乱期慶応4年(1868年)に、熊本藩高瀬町奉行所に藩庁(玉名市)に置いて高瀬藩と改称したが、明治3年(1870年)熊本藩に合併して廃藩となった。その最後の藩主細川利永の肖像写真が発見され、玉名市立歴史博物館に収蔵された事が報じられている。断髪のややお頭が薄いような頭に烏帽子を頂いている。明治十三年の写真とされるが、大変貴重なものだ。所を得て納まった。
■財団法人・島田美術館理事長の島田真祐氏が、「110年前の宮本武蔵熱」という一文を寄せている。武蔵歿後250年余の明治31年淵上誠方の画に、時習館訓導(助勤)を勤めた兼坂止水の、「寒流帯月澄如鏡 新免武蔵先生島原出陣像」の讃がある。「二天記」の記述とは風体を異にする軍装姿である。当然のことながら島原の乱における武蔵は、豊前小倉小笠原藩の人である。島田館長の目はするどく、この軍装が「越中流具足の傾向がある」と指摘される。「妥当性を欠く」とも指摘されるが、「越中流具足」は大変評価を受けていたものである事を思うと、案外画家淵上誠方の考証も当たっているかもしれない。5/19の宮本武蔵の祥月命日を前にした、時を得た一文である。
島田美術館は都市計画道路の建設に伴い、敷地の一部を割譲されて二年半に及ぶ休館を余儀なくされ、去年10月1日装いを新にして再開館した。以前とは違う雰囲気だが、種々の催し物と共に来館者の好評を得て賑っている。
■財団法人・島田美術館理事長の島田真祐氏が、「110年前の宮本武蔵熱」という一文を寄せている。武蔵歿後250年余の明治31年淵上誠方の画に、時習館訓導(助勤)を勤めた兼坂止水の、「寒流帯月澄如鏡 新免武蔵先生島原出陣像」の讃がある。「二天記」の記述とは風体を異にする軍装姿である。当然のことながら島原の乱における武蔵は、豊前小倉小笠原藩の人である。島田館長の目はするどく、この軍装が「越中流具足の傾向がある」と指摘される。「妥当性を欠く」とも指摘されるが、「越中流具足」は大変評価を受けていたものである事を思うと、案外画家淵上誠方の考証も当たっているかもしれない。5/19の宮本武蔵の祥月命日を前にした、時を得た一文である。
島田美術館は都市計画道路の建設に伴い、敷地の一部を割譲されて二年半に及ぶ休館を余儀なくされ、去年10月1日装いを新にして再開館した。以前とは違う雰囲気だが、種々の催し物と共に来館者の好評を得て賑っている。