津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

5/18 熊本日日新聞から

2008-05-19 12:04:50 | 新聞
■細川利重が、寛文六年兄綱利知行より35,000石の内分を受けて創立されたのが新田支藩。維新の動乱期慶応4年(1868年)に、熊本藩高瀬町奉行所に藩庁(玉名市)に置いて高瀬藩と改称したが、明治3年(1870年)熊本藩に合併して廃藩となった。その最後の藩主細川利永の肖像写真が発見され、玉名市立歴史博物館に収蔵された事が報じられている。断髪のややお頭が薄いような頭に烏帽子を頂いている。明治十三年の写真とされるが、大変貴重なものだ。所を得て納まった。

■財団法人・島田美術館理事長の島田真祐氏が、「110年前の宮本武蔵熱」という一文を寄せている。武蔵歿後250年余の明治31年淵上誠方の画に、時習館訓導(助勤)を勤めた兼坂止水の、「寒流帯月澄如鏡 新免武蔵先生島原出陣像」の讃がある。「二天記」の記述とは風体を異にする軍装姿である。当然のことながら島原の乱における武蔵は、豊前小倉小笠原藩の人である。島田館長の目はするどく、この軍装が「越中流具足の傾向がある」と指摘される。「妥当性を欠く」とも指摘されるが、「越中流具足」は大変評価を受けていたものである事を思うと、案外画家淵上誠方の考証も当たっているかもしれない。5/19の宮本武蔵の祥月命日を前にした、時を得た一文である。

 島田美術館は都市計画道路の建設に伴い、敷地の一部を割譲されて二年半に及ぶ休館を余儀なくされ、去年10月1日装いを新にして再開館した。以前とは違う雰囲気だが、種々の催し物と共に来館者の好評を得て賑っている。
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細川家家臣・野田氏

2008-05-19 08:14:37 | 歴史
 歴史は時折粋な計らいをする。例えば旧阿蘇家家臣竹原氏が、主とともに鹿児島島津氏を頼り家臣となっていたが、幽齋の鹿児島訪問の際認められ伴われて上洛し細川家家臣となり、細川家の豊後・肥後転封に伴い父祖の地に帰ったりする面白さである。

 野田喜兵衛・重綱(天草本渡城主天草伊豆守種綱三男・喜膳)にも同様の話がある。

【天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをおめすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
  三斎様御詠歌
    天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻26)】

 喜兵衛の跡は三代に渡り養子を得て跡式、四代の三郎兵衛代「お暇」
【野田三郎兵衛儀弐百五拾石被下置候處 享保九年十二月御暇被下候 先祖訳有之者故追而拾人扶持被下置候處 養子喜兵衛ニ引継被為拝領御中小姓ニ被召出置候】

 参考:天草氏
  武家家伝-天草氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/amakusa.html

  


 
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