津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家の御料理

2008-05-17 16:07:23 | 熊本
 我が家の四代目は江藤家から養子で入った。実家の兄・江藤武助は料理方であったらしい。細川護貞氏著「魚雁集」に「宝暦の料理」という一文が掲載されている。
 細川家に「料理仕法書」なるものがあり、この奥書に衛藤武助の名が見える。
「この料理仕法の儀、御台所、古来より作法にて候。料理の品により、相違の儀もこれあり候を、宝暦年中、佐藤嘉大夫、衛藤武助両人へ承リただし、記し置き候。この余の繁多これを略し候、後年に至り批判これあるまじき也。天明四甲辰年閏正月」
内容は未見でどのような事がかかれているのか承知しない。
                                 
 熊本城本丸御殿で「細川御膳」なるお料理を戴けるらしい。こちらでは火の使用が制限されているから、どこかで作っての持込らしい。本丸御殿の活用法としては妙案かもしれない。ただしそのお料理は、熊本の研究家や料理人が文書(先のものではない)を見ながら復元したらしいが、どこまで再現されているのだろうか。

 最近評判なのは、家老有吉家の夫人が伝え教えてきた味が、某御料理舗で出されているらしい。(間違いはないのだが、私がまだ食していないから・・らしいとしておく)某焼酎メーカーのサイトや、某ブログ等でも紹介されている。どちらかといえば、後者を応援したいものだ。
   www.hakutake.co.jp/fun/recipe/20074
   www.howdy.co.jp/dining-express/index.php?date=2007-06-25&_gwt_pg=8
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上田久兵衛・日録

2008-05-17 13:05:44 | 歴史
 圭室諦成氏は著「横井小楠」で、p324「五・共和主義者とする説」の頭に、「古賀は九月二十四日ごろ熊本についたようで、二十四日夜攘夷派の頭領上田久兵衛を尋ねて、明け方まで飲みあかした。上田は日記のなかに古賀のことを、「巡察憤激急、攘夷家なり」と評している」と書いている。

 「日記(日録)」は現在、東大史料編纂所に納められている。私の処に「写」がある。日記といえばこれしかなかろうと、探し回った。お陰で睡眠不足で頭は朦朧としている。
その日記とは「己巳三月十五日家居起草 以待堂 上田休」と認められた「日録」と題するものである。該当する日にちのものには、以下のようにある。

二十四日晴 「逸助新治等歸報巡察使非贋 夕巡察至薄暮侯安云聞吾名久矣尊攘確乎論早在耳 願相見聞高論余亦不敢辭 巡察憤激急攘夷家也 杯酒論談半夜巡察送 余歸来公館(以下略)」

 圭室氏がこの日記を引用された事は間違いない。但し巡察が古賀氏である事は、「日録」では判明しない。古賀側の記録があるのだろう。「明け方まで飲んで」とは間違いで、半夜というから日が変わる頃か巡察(古賀?)を送っている。帰った久兵衛は又飲み始め、これは明け方まで飲んでいる。
 どのような経緯でこの「日録」を読まれたのか興味深い。当時所蔵されていたという上田某女を訪ねられたのだろうか。この「日録」現在活字化する為にタイピングの作業をしているのだが、量が膨大だし読み解く事が出来ず難航状態である。しかし、こんな事も有るから何とか早くと気が焦る。

 頭が朦朧として瞼が重い。コーヒーを濃く沸かして数杯飲んだが効き目がまったくない。しばらく昼寝と参ろう。

 
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