+----義乗-----義家(無嗣断絶)==義孝(旗本大友家・高家)
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大友宗麟---+---義統---+----松野右京----+--主殿------主殿 (二千石・孫三郎家)
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| +---義孝(旗本大友家・養嗣子となり再家)
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| +---義冬(旗本松野家創家)
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+---利根川道孝----松野織部---+==亀右衛門==亀右衛門 (千五百石・亀治家)
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| +----善右衛門----又右衛門 (五百石・一葉家)
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+---半齋--------八郎右衛門 (千七百石・八郎家)
「松野氏家系」による松野四家である。嫡家は松野右京進を初代として、六代目まで主殿を名乗っている。嗣陰令がいう「主馬」が何代目の人なのか、確認できないでいる。
追記 : 2008・12・29 各家の家紋についてのご質問に関する件
「肥陽諸士鑑」に依ると次の様に記されている。
■ 孫三郎家(義統流) 抱き杏葉 算木
■ 亀治家(道孝流) 陰蛇の目
■ 一葉家(道孝流) 陰蛇の目
■ 八郎家(半斎流) 算木
元和という年は、十年二月三十日改元され寛永となる。しかし小倉細川藩の「日帳」での最終記録が上記の如く残されている。先に存在しない日付での「お書出」をご紹介したが、藩庁の記録さえもこのようなことがある。(一部閏四月、五月などの記録が混入している)
実は、元和十年三月十二日の「日帳」の記録には、「年号替申事由、式部殿(松井興長)より被仰下候、寛永、二月朔晦日」とある。朔晦日というのがよく分からないが、「朔」の字の脇にチェックが入れられているところを見ると間違いであろう。三十日=晦日が正解である。
現代に於いては、改元ともなると大騒動になるところだが、何ともゆったりした話でこんな具合である。
実は、元和十年三月十二日の「日帳」の記録には、「年号替申事由、式部殿(松井興長)より被仰下候、寛永、二月朔晦日」とある。朔晦日というのがよく分からないが、「朔」の字の脇にチェックが入れられているところを見ると間違いであろう。三十日=晦日が正解である。
現代に於いては、改元ともなると大騒動になるところだが、何ともゆったりした話でこんな具合である。