端午の節句という言葉は、新暦の今日では通用しない言葉になった。「端」は最初という意味があり、五月最初の牛の日が本来の「端午の節句」だが、「午」を「五」と読み替えて、五月の五の日が今日の「端午の日」となった。「菖蒲の節句」という言い方もあって、私は好きだ。菖蒲の葉を軒先に投げ上げて「邪気を払う」という習慣もなかなか良いものだと思うが・・すっかり廃れてしまった。
子供が幼かった頃、近所の商店街に元気な老人がいた。腕から背中に掛けて「刺青」があった。朝早く老人は憚る事も無く上半身裸となって、歯磨きをしながら表へ出てくる。知り合いが通ると、口を泡だらけにしながら「おはよう」と声を掛ける。老人の威勢のよさは「菖蒲の節句」にも発揮された。菖蒲の葉を向こう鉢巻に結んで、道に面したトタン屋根の店口の屋根には、数本の菖蒲の束が投げ上げられている。奥の一角に飾り物の鎧兜や旗指物が飾られているのが見える。老人が言う。「俺ン所のご先祖はさむれー(侍)だった。ご大身じゃーねーけどよ。」だから飾るのだという。熊本の人ではなかったようだが、だからといって「江戸っ子」でもない。変な訛りがあるべランメーだった。「鎧兜は平民は飾っちゃーいけねーんだよ」と薀蓄を垂れた。
歳を重ねるたびに体が細り、背中や腕の花がしぼんでいった。或る日「忌中」の張り紙が出た。遺族はこの地を去られたようだが、商店街の屋根に菖蒲を投げ上げる習慣は続いていた。いまはどのお宅もすっかり新しいお店になって、菖蒲が鎮座する屋根がなくなってしまっている。男の子には「菖蒲の鉢巻」を、女の子には「菖蒲のリボン」を・・・そんな習慣さえ見られなくなった。
今日は柏餅をいただき、菖蒲湯を楽しみたいと思っている。
子供が幼かった頃、近所の商店街に元気な老人がいた。腕から背中に掛けて「刺青」があった。朝早く老人は憚る事も無く上半身裸となって、歯磨きをしながら表へ出てくる。知り合いが通ると、口を泡だらけにしながら「おはよう」と声を掛ける。老人の威勢のよさは「菖蒲の節句」にも発揮された。菖蒲の葉を向こう鉢巻に結んで、道に面したトタン屋根の店口の屋根には、数本の菖蒲の束が投げ上げられている。奥の一角に飾り物の鎧兜や旗指物が飾られているのが見える。老人が言う。「俺ン所のご先祖はさむれー(侍)だった。ご大身じゃーねーけどよ。」だから飾るのだという。熊本の人ではなかったようだが、だからといって「江戸っ子」でもない。変な訛りがあるべランメーだった。「鎧兜は平民は飾っちゃーいけねーんだよ」と薀蓄を垂れた。
歳を重ねるたびに体が細り、背中や腕の花がしぼんでいった。或る日「忌中」の張り紙が出た。遺族はこの地を去られたようだが、商店街の屋根に菖蒲を投げ上げる習慣は続いていた。いまはどのお宅もすっかり新しいお店になって、菖蒲が鎮座する屋根がなくなってしまっている。男の子には「菖蒲の鉢巻」を、女の子には「菖蒲のリボン」を・・・そんな習慣さえ見られなくなった。
今日は柏餅をいただき、菖蒲湯を楽しみたいと思っている。