津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ガラシャの血脈

2008-05-10 15:53:35 | 歴史
 細川家先代当主護貞氏の御名の「貞」の字は、ガラシャ夫人から来ていると生前語られている。細川家は齊茲以降は宇土細川家の血脈であるから、ガラシャ夫人の血は引き継がれていないと思っていた。あるサイト(最近見受けない)が、婚姻関係を洗い上げ、細川宗家にもガラシャ夫人の血は受け継がれていると解説していた。どう考えてもそのような事はありえないと思うのだが、サイトがなくなった今検証のしようがない。

 ガラシャの血は嫡男忠隆の内膳家に脈々と受け継がれている。そして奇しくも四代忠季女サン・五代忠英女が、ガラシャの介錯をした小笠原少齋の備前家に嫁いでこちらにも受け継がれた。
 二男興秋の血は、女鍋が南条大膳元信の嫁いだが子を為していないのでここで絶えた。しかし養嗣子長岡元知がガラシャ三男忠利の子(末子)であり、ガラシャの血は元知の息是庸が、重臣米田家を継ぐ(五代)事により米田家に入る。
 三男忠利の男系嫡男綱利系は断絶、二男利重系が宗家を継ぎ宣紀・宗孝・重賢・治年と続いてこれも途絶える。光尚女・竹が有吉英長に嫁いだが子を為したかどうかは不明である。綱利の女・吉は細川利晶(利重嫡男)へ、伊津は綱利の生母・清高院の実家清水家の勝貞に嫁いだ。宣紀の子(宗孝・重賢弟)興彰が細川刑部家を継ぎ、刑部家にもガラシャの血は受け継がれた。利重の女子・成が宇土細川家有孝に嫁いでいるが、子は為していない。新田藩利重の広がりは結構ある。利晶女は松井家七代・豊之に嫁いでいる。幕末・明治の活躍した、宮武外骨夫人・緒方八節などもその一人である。

 以上は熊本藩関係のみを概略記したが、女子の婚姻による広がりは追跡困難である。又、宗家に上記の各家から血が入った形跡は見受けられない。某サイトが消えてしまっていて、反論のしようがない。
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黒齋玄与と墨齋玄可

2008-05-10 12:13:13 | 歴史
 今年の3月28日のブログで細川家家臣「竹原氏」の事を書いた。
初代市蔵(惟成 庄右衛門・玄可)について、綿孝輯録は次のように記している。
【藤孝君、文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候】

 鹿児島の島津氏の元に在った阿蘇出身の市蔵が、幽齋の手により細川家家臣となった。豊前を経て肥後の太守となった細川家と共に、竹原家も父祖の地へ帰るわけだが、大変運命的なものを感じる。
後の「宝暦の改革」は竹原勘十郎の存在が無ければなり得なかった。

 阿蘇家は惟前と叔父惟豊が守護職をめぐって争ったが、これに敗北した惟前は島津家を頼った。惟前の子・惟賢も秀吉の九州征伐に際し、矢部の浜の館を脱して島津家へ奔った。当時島津家には勅勘を蒙った、近衛信輔が流謫の身を置いている。幽齋が鹿児島を訪れた文禄四年、惟賢との対面もあったであろう。竹原市蔵は惟前・惟賢の許に在ったのだろうか。

 幽齋が市蔵を連れ帰った翌年文禄五年七月、近衛信輔は勅勘を赦され鹿児島を離れる。その折惟賢は随従して京へ登る事になる。そのときの紀行文が有名な「玄与日記」である。一名「阿蘇黒齋玄与近衛信輔公供奉上京日記」とよぶ。一行が京へ入ると、幽齋が駆けつけていることが伺える。玄与に従していた竹崎千左衛門尉なる者が、長月十一日「幽齋老の御用の事ありて薩摩へかへし申候」とある。竹崎氏一族であろうか・・・

 さて、市蔵は後、「墨齋玄可」と号している。旧主・阿蘇惟賢は「黒齋玄与」、あまりにも似ている事に驚いたことである。島津の阿蘇氏や竹崎氏の其の後の消息など、勉強不足で知りえないが興味がつきない。

 
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