津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「か」か「こ」か、悩ましい

2008-05-13 15:06:23 | 徒然
 まずい事が起った。「神足」氏がわが侍帳から消えた。今日気がついたのだが、どうも相当期間消えていたように思える。もともと「神足」氏は「か」の項目にあった。「こうたり」が読みであろうから、「こ」の項目へ移動した(つもりだった)。しかし「こ」の項目にない? 「コピー」して「貼り付け」たが、「上書き保存」をしなかったのではないか・・・資料が残っていない、さてどうしようかと呆然としている。

「か」の項目に「こ」の読み出しではないかと思われるものが多々ある。これは当侍帳が永青文庫先祖附の「いろは別」分類に依っている事による。
「甲田」「甲野」「合志」といったものは明らかに「こうだ」「こうの」「こうし」であろう。「甲」「合」を「かう」と読んだ名残である。「神山」「香山」「神戸」「上月」「上妻」「神足」辺りになると、どっちとも取れる。「神山=こうやま」「上月=こうづき」「上妻=こうづま」「神足=こうたり」は間違いないと思うが、「香山」は「かやま」なのか「かうやま=こうやま」なのか、「神戸」は「かんべ」なのか「こうべ」なのか・・・頭が痛い。

 ともあれ、「神足」氏を復活させねばならないのだが、侍帳の原稿はすでに廃棄処分している。代々の名前の復活は容易なのだが、書き添えた資料がない。最大の危機である。・・・頭が痛い。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋谷市蔵殿、お供

2008-05-13 13:02:31 | 歴史
 寛永十八年正月晦日付、「今度江戸御供ニ参歩之御使番并歩之御小性衆不足」という文書によると、寺本久太郎与(組・歩之御使番)においては六人が不足しているとある。一人は役替、参人が病死、二人は元々からの不足らしい。「歩之御小性衆」も病死六人、永煩の養生三人、不届きがあっての扶持放し五人、その他諸々で二十人が不足している。
 別に同日日付けの「今度江戸へ歩ニ而御供望申候御中小性衆」という文書も残されている。十三人の名前があるが、前記の不足二十人の補充なのであろう。「太儀ニ候めしつれ可申候、此前之ものへ申付ともさせ可申候、以上」と加筆されているが、「太儀ニ候」という文字が当時の状況を物語っている。

 この中に橋谷市蔵の名前がある。
細川忠利はこの年寛永十八年三月十七日逝去し、この参勤は成されなかった。十九人の家臣が次々に殉死していく。その中に橋谷市蔵がいる。寛永十八年四月廿六日、西岸寺に於いて切腹、三十一歳。介錯は吉村甚大夫、妻子が無かった為実弟野脇久之允が跡目した。
江戸へのお供が、黄泉のお供となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家家臣・中村(新助)氏

2008-05-13 09:38:29 | 歴史
 中村新助家は細川家根本家臣の一つである。「山城國西岡御領地之地図」には、青龍寺城を囲むように、沼田・松井・米田・神足・築山などの屋敷が書き込まれているが、中村という屋敷も記されている。間違いなく中村新助屋敷であろう。新助妻は忠興御乳人、のち大局(おおつぼね)を勤めるが、綿孝輯録は「藤孝公、義昭公御漂伯御供の折、町屋に隠れ忠興公御育永禄十一年御感賞、御乳を大局被仰付新助知行百五拾石、妻に百石被為拝領、二人共豊前病死」と記す。三人娘の内の末娘のみを引き連れての隠れ家生活であったとされるが、その末娘「ごう」は坂根長右衛門室、その嫡男茂助が後中村家を家督する。「伝来仕候御書(綿考輯録・巻9)」には次のようにある。

 其方儀、母依願小知遺之、已来ハ鑓を為持候身上申付候、我等家相続之程ハ、
 其方家も為無断絶、鑓と共に一封を相添候、子孫ニ至迄有相違間敷之条如件
    正月十五日        宗立(御青印)
                    中村茂助殿

 代々馬廻り役を勤めたが、四・五代目は佐敷詰、六代目が「寛保三年乱心ニ而自害、其時妻懐妊ニ而居候か、男子致出生候ニ付御中小姓召出、八人扶持拝領」、以降「当家旧家柄殊格別之訳就有之・・」にて旧禄を安堵されて明治に至っている。
 分家「九右衛門家」も、代々郡代・奉行等の要職を勤めた。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする