津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「旦夕覺書」--月・7

2015-03-02 09:34:53 | 史料

                一、江戸ゟ御下國の刻岡崎の入口に廣き所茶屋有之候所に松平丹波守様御家来乗物引馬にて下馬仕居被
                  申候 拙者参候て其儘御召候へと申歸候得は唯今の者は家老と見へ申候 念を入れていねいにじぎ仕候や
                  先刻丹後(ママ)守殿供の侍共四五人下馬仕候刻何も手を土に付居申候 我は手を付不申候てじぎ仕候 定て乗
                  物にさわると存候て手に土つき可申と存たると思召候 併御意にて手よこれ申は不苦候侍の手を土に
                  つき居候時は何時も我も手をつき候てじぎ仕候へと被仰聞候 ケ様の事も能々心付可被申候 如御意
                  常に手よこれ不申様にと覺悟仕候事能く御覧被成候て右之通に被仰聞候と奉存候

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                 次も過去に単発で取り上げていたので、一応順番として再度ご覧いただくためにサイト内でリンクさせた。 

                 (細川家・黒田家不仲の折、黒田如水豊前に忠興公を訪問の事)
                       ■確執の中の細川・黒田両家

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                一、或時神田橋の邊内へ御通被成候刻内ゟ乗物にて馬引せ三千石計の様子にて参候者下馬仕候 此方の御
                  先供其外見知り不申候 太守様も御駕すへ候得と被 仰候故御駕すへ候得と申付候處乗物ゟ急き下
                  りはたしにて走り/\其儘被遊候様に私は森美作守家来各務三右衛門と申の由申上候 私へ被仰
                  聞候は唯今のは森美作殿家老にて候惣躰皆か格にても唯今の様成家老共には駕すへ申様に源兵衛にも
                  申聞せ候へ今度道中にて堀次郎右衛門兒小姓共召れ候て松平右衛門佐殿に何も下馬仕候へは右衛門
                  佐殿も乗物より下り被申又舎人もとこやらにて下馬仕候へは乗物ゟ下りられたると御聞被成候由被
                  仰聞候時二郎右衛門は興津の宿にて御意の通に下馬何も仕候由舎人殿はさつた山にて下馬仕候由私
                  へ両人共に咄聞せ申候由申上候へはいかにも/\能覺居申由 御意被成候事 

        ・ 森美作守の人物の特定ができないでいる。長継か!!! 
        ・ 各務は「かがみ」とよみ清和源氏・義光流だとされる。
          ガラシャ夫人に殉死した小笠原氏も加々美氏を称し清和源氏・義光流とされるから、ルーツをたどれば同根と云うことになる。
        ・ 松平右衛門佐は黒田忠之のことか・・・・・ 

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■先祖附 柏原(新住)家 続き

2015-03-02 07:28:52 | 先祖附

 「旦夕覺書」を読んでいると、時折「要人(カナメ・カノト?)という名前が出てくる。この人物は大木隼人兼近(要人)だと思われるが、同時期柏原家二代目の柏原定常も又要人を名乗っていた。
私の「新・肥後細川藩侍帳」では次のように紹介してきた。出典史料が少なく実態に即していない部分が見受けられる。

         柏原要人・定常  人持衆并組外衆 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
                      延宝十年七月~元禄十四年一月 旅家老 (四千五百石)
                      元禄十四年一月~正徳元年十二月(病死) 家老
                         細川綱利公御書出(延宝五年)
                         細川綱利公御書出(天和三年) 

今般P様より問合せのご連絡をいただき、あわてて過去の書き込みなどをチェックしてみた。お問い合わせの内容は、永青文庫の所蔵として有名な細川忠興愛用の刀「歌仙兼定」についてであるが、この刀は細川綱利が柏原定常に与えたとされている。大正の初め細川護立侯が熊本の刀剣商N氏から譲り受けたとされる。200余年を経て忠興公愛用の名刀が細川家に帰ってきたことになる。

■先祖附 柏原(新住)家」に於いては初代新左衛門までしか紹介しておらずあわてて二代要人を書き加えることとした。
 

          先祖附 続き
                 二代目
                 一、曾祖父要人儀江家督被仰付御知行三千五百石
                   家屋敷共被為拝領要人自らニ被下置候御知行
                   千石被下都合四千五百石被仰付直ニ御側ニ而
                   旅御家老役被仰付相勤申候 新左衛門儀法躰仕
                   道慶と改申候 為隠居料百五拾人扶持被為
                   拝領候 宝永四年正月病死仕御扶持方
                   差上申候 右要人儀元禄十四年正月御家老役
                   被仰付相勤居申候処正徳元年十二月病死
                   仕候 

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