一、同御代犬追物御昭(ママ)覧之節 肥後守光尚公御同座に唯今の松平伊豫守様御先祖越前少将光通様御十三
の時御同座にて御見物被成候内光通様御自由に御立被成候 御前ゟ見へ申候故何もしつ/\と御立被成
候故御歸被成候節御前より見へ申さぬ所より可被成御座候 何も思召候處に本の如く御座につかれ候
由 肥後守様御歸被成候て御伽の衆何も罷出今日は珍敷御見物被遊候と申上候へは薩摩守様御家來共
弓馬の達者御感被成候て夫より珍敷思召事か有る伊豫殿息十三にて御同座被成候 箇様/\と御咄
被成幼少に候へは家老とも今日の様子いかゝと気遣に可存候 夜中にても家老共へ被仰遣候はゝ案堵
仕可申とて御使者委細の御口上にて被仰遣候へは御家老承偖も/\忝仕合とも明日何も申合御禮に
参上仕候事延引仕候とて夜更申候へ共此御禮為可申上御家老其外歴々即座に御禮に参申候由三浦九
郎兵衛・遠坂關内殿へ咄申候一座に居申承候 拙者初江戸當年五十九年に成申候 其年芝の御屋敷に右の
越前少将様御振舞に被成御座候 御相伴には松平出羽守様・佐竹修理太夫様・大久保加賀守様右御四人被
成御座候 拙者は初江戸にて御供衆を見物に罷出候て見申能く覺申候 其時の出羽守は越前少将様の
御従弟と承候 其時の加賀守様は松平下総守様御姉聟にて後の加賀守様は御老中御隠居被成杢頭様と
か初御養子に御座候時は出羽守様と申候 同名無發唐津に勤居申時御養子に被仰付能覺申候 越前少将
様は右の通に御心安く出羽守様は 忠利公御代別て御心安く就夫後の出羽守様も御心安く御座候て
長岡筑後殿佐渡と申時分出羽守様御振舞被成候時上月八右衛門も相伴に御呼被成候 此時出羽守様う
つらの焼鳥重箱に入申候を御持被成御引被成佐渡殿へ若く候間八右衛門親父文左衛門事委く御存有間
敷と我等は能存候福島左衛門太夫城代勤申候 安藤對島守城受取に参候て文左衛門仕方無残所様子に
候 拙者は若く有之間能く承候へ城代なとは別て手に受居申あつく難儀を仕候とて八右衛門拙者へ具さ
に咄聞ひ被申候事永くしるし不申候 佐渡殿はうつら被下候刻かさを持うけられ候得共拙者は憚に存
手を出し請申頂戴仕由八右衛門被申候 尤に存候
一、家光公御代 光尚公はすくれたる御大将と世上にて申候由井伊掃部頭直孝の御嫡子靭負様に掃部様
御咄被成候は唯今若手にて 細川肥後守に續くは無之様に聞へ候 其方は心安く咄候へ近日振舞馬數
寄と申候間馬なとも見被申候様に其砌は勝手に御越可被成山本より 光尚公靭負様と御心安御間から
にて委細御咄被成候御振舞に被成御座候 御馬御見物の刻此馬は掃部秘蔵仕候間御覺可被成候 次にて
承候はゝ悦可申と被仰候得は高々と掃部殿御秘蔵の由御尤に存候御老體の召能く可有御座御馬と御
意被成候由其後掃部頭様靭負様に御咄被成候は先日肥後守殿被参候節次にて馬見被申時能き馬と
は不被申我等秘蔵と被申候へは乗り能可有之と被申事偖々尤成る事に候 大名にて殊に馬數寄之由
に候へはあの馬より能馬多く可有之候 能き馬と不被申老體の乗り能く可有之とは偖々尤成被申様掃
部頭様御感被成候由三浦九郎兵衛咄遠坂殿にて
一、同御代江戸町奉行石谷十蔵殿 後號出入 御代々御心安御座候 町方出入御座候か總體重き御用の時は御老
中就中掃部頭様御聞被成候儀は重き事に御座候由發に御吟味の刻埒明不申重て御寄合の時石谷十蔵
殿御申出し候儀尤成る事とて十蔵殿御申の通可然との時掃部頭様十蔵殿へ被仰聞候は此間吟味にて
埒明兼申候十蔵被申通尤に候 偖兼々心安細川家へ被参候儀存候 此儀を咄可被申様には不存候へ共
何そに事よせ道理為可聞
肥後守殿に咄被申たると覺候 唯今の被申分は十蔵分別とは不被存候由十蔵殿被申候は偖々御恥か敷
事に奉存候如御察代々心安く 肥後守殿へ参候故別儀によせ 肥後守殿思ひ寄承申候由御申候へは
掃部頭様御笑被成何も 光尚公を御感し被成候由三浦九郎兵衛咄
一、或時道中小田原の入口さ川渡り五六丁程被成御座候道に竹中庄二郎と申候て御役者御幼少の御時よ
り御出入仕御懇比に被成候者御目見罷出居申候を見つけ候故あなたに竹中庄二郎罷出居申候由申上
候折節御眠り被成御座候處に申上候へはどれ/\と御戸を御明ケ庄二郎と御意被成候て拙者へ 被仰
候は偖々能く見覺申上候 庄二郎は久々煩候て熱海に湯治に参申候 小田原一宿と聞候て罷出たると
思召候 久々煩申候故顔色も變り疲衰へ御見違へ被成候様に思召候に偖々能く見覺申上候と殊の外御
意に叶候様に被仰聞候事右之通拙者は若き時より物覺見覺能く拙者心にも少自慢に在候 太守様に
も左様に被思召候哉或時江戸に於て藤崎作右殿ゟ御用有之由にて御次に罷出申候へは其刻篠川勘平
と申歩の御使番唯今は竹村平右衛門養子に成候て勘平御門札落し遠慮仕候時分にて拙者儀は數年定
御供相勤申覺可申と被思召候 此前より札を落し申候者多く御覺被成候 夫々被 仰付たる様を覺申
通申上候へととの儀にて覺申通申上候 若き時分より御供計を相勤申拙者には不存寄事に奉存候 老父物
覺の事度々被申聞候に覺能く御座候事も老父影と書付置候
一、或時江戸御参勤之刻大坂より陸を伏見へ被成御座候節淀の橋を御通り川端を被成御座候刻御跡より
侍一人上下十人計召連左右の方を御先へ通候刻家來共不残馬も先へ通し其人は跡より罷通申候刻羽
織立付着仕御駕の脇を御時宜候て通り申候 様子能く見へ申候 其儘拙者に御意被成候は唯今通り
申候者は誰の者か偖々功の入たる者と思召候 多分行列の内は致遠慮歩行にて可参と思召候 見申候へ
と御意被成候 見申候へはいかにも御意の通歩行にて参候由申上候へは早々参候て宜く申乗り候て参
候様に可申聞と御意被成候故其儘走り参候處に餘程間御座候故跡よりもし/\と言葉をかけ申候へ
は行留り申候故 越中守申候は彼人御念候様に被存候不苦儀に被存候行列の内無御遠慮御召候へと
申名を尋候へは毛利甲斐守内瀧三太夫と申者にて御座候由罷歸候て右之段申上候 段々御意に叶申候
哉度々拙者に功の入たる者と御意被成候 偖御着座被成候て其年の(元禄11年)九月六日大火事にて上御屋敷御類
焼にて芝の御屋敷に被成御座候節右の甲斐守様に何か御使者に牧五助被遣候 御返答申候節右之瀧三
太夫罷出候て五助に御口上申候て以後堀内傳右衛門殿は御無事に候哉と尋申候 幸拙者は五助とは前
髪御座候時分心安咄候故傳右衛門儀無事に居申候 如御存上屋敷類焼に付當分は芝の屋敷に居申由被
申候へは三太夫申候は御歸被成候はゝ傳右衛門殿へ能々御心得可被下候 當春甲斐守参勤之刻道中に
て越中守様へ御目見仕候刻傳右衛門殿宜敷被仰上被下候故お殿中 越中守様私儀甲斐守に委細被仰
聞候由罷歸甲斐守私へ申聞候 偏に傳右衛門殿御取成し宜き故と存候 此間ゟ御無音仕候 幸に傳右衛門
殿と御心安き由被仰聞候故具に御咄申候 此段能々被仰達被下候様にと被申候由五助罷歸候刻拙者芝
大廣間御番勤申所に右之段々五助被申聞候 其刻御留守詰に須佐美源左衛門・高見三右衛門なと御廣間
に居被申候 高見は初江戸にて箇様成る咄は承置度候とて右の咄具さに語聞せ申候 以後承候へは三太
夫は若き時は桑山修理殿に聞番を勤居申候 壽命院・江村宗因なと能く被存候由承申候 綱利公甲斐守様
とは御心安き御間にて右之通にて御座候へは三太夫為に別而忝存候事尤に存候 箇様成事各聞置被申
候様にと書置候 毛利甲斐守様は五萬石長府御在所
一、将軍家光公御上洛の内森美作守(森忠政)様は於京都御卒去被成候由 忠利公御代々御心安く其儘御見廻に被
成御座候へは御存知被成候 何某とか名は覺不申候最早御卒去之旨申上候へはうつ氣者と御しかり被
成/\御座所へ直に御通被成如御存生高々と内々御願の通内記殿(長継)御養子の御願可然思召候御取持可
被成候間少も御心にかけられぬ様にと高々と御意被成候て御歸之刻御家来共歴々に被仰聞候は御最
期の御願御聞届被成候 何も案堵仕候へと被 仰聞候て御歸被成候由最前御しかり被成候仁感涙仕其
外歴々御家來共涙を流し忝かり申候 右の様子にて内記様に無相違美作拾八萬石津山御城無相違御拝
領被成候 内記様という御名も御所望にて御付被成候様に承申候 右美作守様は大坂御陣の刻は森(羽柴)右近様
と申候 後に美作守様三位中将にて内記様は御甥にて中将様御弟關備前守様御子の由信長公以来御代
々御別ての御筋目御家來落合勘兵衛兄に落合勘三郎とて 忠利公御懇比に被成候者の勘兵衛は弟に
御家へ参候由承申候
読売新聞のサイトにある「本よみうり堂」に3月2日付の書評として、佐々木克氏の「幕末史」が取り上げられていた。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20150223-OYT8T50312.html
一方読みたいなーと思いながら果たせないでいたのが、半藤一利氏の「幕末史」である。
この際両方購入して読み比べてみようと思っている。
今日は3月3日「桜田門外」で井伊直弼が殺害された日である。
私の幕末に対するつたない歴史観は、安直かもしれないが維新=テロルの時代だと考えていて、あまり好きな時代ではない。
しかしそうも言ってはいられないではないか。よい機会だと考えて勉強しようと思っている。
内容紹介
国家建設の全貌
日本が大きく揺らいだ激動の幕末。江戸が終わり、国際社会へ漕ぎだしていった時代に、いったい何が起きたのか。吉田松陰、坂本龍馬、大久保利通といった若者たちは、どのような志を抱いて生きたのか。本書は、日本を立ち直らせるために「挙国一致」で立ち向かった人々の姿を、最新の史料からダイナミックに見通していく。黒船来航から明治国家の創設まで、日本が根底から生まれ変わる軌跡を、第一人者が一望に収める。