堀平太左衛門勝名
一、寛延三年七月、封事を奉りしなり、數多のヶ條を書て、御直に聞召され候はゞ、申上んと、小川貞
之丞を以て差上る、夫より夜毎に召出され、子丑の刻迄聞召されし、數月に及ぶ、御次にては、身の
上事を申上候歟、又はよからぬ事を、御勘申上るにやと、或は疑ひ、或は恐るゝ者あり、玄路申上る
候は、左様の事に非ず、御先代より、御國の風俗、郡村の事、御役人の贔屓を以て、其任に當らざる
人を、御用になる事、賄ひを我勝にして、立身する類、其事實を擧て申上る、玄路手の廻らざる事
は、同志の人ありて、助け告知する者あり、寛延四年何月か不覺、政治の御話の折節、不慮に大國
を領せられ、今更御行當なり、中々御身様の如き、御気薄き上、御病さへあらせられ候へば、御政道
などの事は、難き御事なり、なずはならせられずと、御嘆息なり、玄路申上けるは、夫はいかなる
思召に候や、御気薄、御病身とて、御自身の御働はなくとも、人を選び、夫に委ねられ候へば、
何ごとか難からん、頼奉りしかひもなく、浅ましの御心かなと、落涙仕候を御覧じ、頼もしき心な
り、爾後まで、其心を變ずまじき歟、我眼に耻をかゝすなと御意あり、玄路謹て領承し、命を限り
と仕るべしと、申上候へば、さらば本心を語り聞せん、つら/\此國の人を見るに、名利の慾専に
して、始末をとぐべき人なし、もしや委任の人有ん歟と御意あり、玄路申上るは、多年心を付て、
遠く聞近く交候に、一人も候はず、堀平太左衛門勝名 其時は勝貞 入魂の交を致し候に、此人ならでは、
始終を不變に為すべき人なしと申上る、聞召て、余も左は思ふなり、しかし、ケ様々々の事ある由を
聞、いかゞや有んと宣ふ、玄路申上けるは、左様の事を申人は、虚俗ならん、思て不言ときは、其
事晴る時なし、一人を目附に指添給はらば、玄路参て、虚實を正しく糾て見申さん、若虚にて候は
ば、御疑晴れ玉へ、若實事に候はゞ、玄路其席にて指違へ申さんと申上る。爾豪気なり、爾こそ事を
遂ましけれ、必豪気を止めよと御意あり、玄路奉命て、勝名小屋に参る、 夜中なり 御不審のヶ條を、
有の儘に申述ければ、固より虚説にて一々答へ明白なり、勝名斯る虚名を蒙る事、全く自身行届か
ぬ所あるによりてなり、宜く御請は申さぬなりと、怒の顔色なり、早速其由を申上る、夫より君の御
心も解させ玉ふ 竹原玄路書付○雑記十三