津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「旦夕覺書」--月・23(了)

2015-03-17 09:03:46 | 史料

                 (家老・松井興長、初入國の綱利に鞍置の馬十二疋を献上す)
                一、初て御入國の時 二(?・三)代目筑後殿祖父 長岡佐渡殿(興長)ゟ鞍置馬十二疋被差上候 拙者馬稽古の時にて見申候 江戸
                  へ皆御引せ被成候へ共其内船に乗兼初花と申栗毛に星有之馬は鶴崎ゟ戻り申候 其後鹽山仁左衛門
                  咄申候 其時分は御家中に馬數六百餘御座候由近國は不及申四國中國にても佐渡殿馬十二疋鞍置被差
                  上候事承及昔しは不存近代不承事とて感申由尤御幼少の内御大小身の衆にも家中に色々沙汰有之候
                  に十二三年の間無何事大國治り御入國被成候儀偏に熊本御家老衆手柄成事世上に申由老父方へ参候
                  衆咄被申候事覺申候 尤成事と存候 陸奥守様綱宗御隠居の後家中はた/\に成候事覺申候 伊達安藝と
                  申御家老と原田甲斐と申者と酒井古雅楽頭様御屋敷へ両人御呼寄様子御聞可被成と御目附大井新左
                  衛門殿被致同道御座敷に通候刻安藝を甲斐後ゟ切申候 其時分色々沙汰承申事永書置不申候 是は大形
                  の衆は聞及可申御禮日の前日にて 妙應院様御城御見廻被成雅楽様に御見舞被成候刻御供に参候故
                  能く覺申候 ヶ様の事存候にも當御家老中誉申事尤に存候

                 (天領日田で騒動の気配)
                一、初て御入國の以後か豊後國日田の御代官小川藤左衛門と所の百姓共と出入候て御家ゟも御人數出可

                  申哉と近國さわき申候 其砌三盛方へ田中次太夫志羽惣右衛門と申牢人も小倉より三盛方へ参居候 幸
                  の儀に候拙者十八かと覺申候 其時は内入は御中小姓組にて御座候 拙者無足にて居申候故三人共に御
                  人數参候はゝ即刻先へ参候へと鎗の柄なとゆかみ申を直させ長き刀さし可参被申候へ共鎗持参候間
                  二尺三寸の刀可然なとゝ被申偖股引一ツこしらへ可申力もなくすり切にて古き着物なとにて股引を
                  ぬひ老母給り申候 若く候得は不及是非仕合股引さへ拵候事も不被成候 勝手にても右の通牢人と申候
                  て参候衆ははこくみ夫々有付遣被申候 其心故に如斯兄弟共に新知拝領仕候間各能く心付被申候て人
                  の為成人承不申候 子として随分と存候得共神以中々成る事にてはなく候へ共先祖の志を継候儀孝の第一
                  と承候間書置候 右の時分熊本騒ぎ申候 或夜老父所へ長谷川久兵衛なと咄に参候か彌日田の出入六ヶ
                  敷成候由御人數も出可申様に今日も承候と咄被申候 老父拙者に二の丸に参候て御家老中の屋敷心を
                  付候て見申候へと夜五つ比被申候故罷出候て筑後殿其刻は帯刀殿と申候 今日八代より被出候由申候
                  夜中に門の内にて馬一二疋責馬口なといれ申候 門のくぐり明き候故外より見申内に駕にてくゝりの内
                  に乗ながら入候故門番尋候へは長岡自雲(三渕之直)と申候 初は九郎兵衛殿と申候山名十左衛門殿御親父筑後殿
                  ために伯父にて高瀬邊に隠居にて引籠被居候 日田の様子御聞可有とて出被申たると存候 右の通に候
                  へは残る御家老の屋敷へ参候に及ひ不申候 急き歸候て久兵衛殿なと居被候内に罷歸可申と存候處
                  に監物殿屋敷に當り鼓太鼓の音聞へ申候故偖々いな事と存候て夫より参候て承申候へは能かはやし
                  か御座候 帯刀殿屋敷に馬責監物殿屋敷にては右の通偖も相違成事と思ひ申候 歸申候へは何も待兼居被申
                  何と/\と尋被申一々咄申候へは久兵衛殿御申候は三盛何と存候哉帯刀殿若く候へは従八代御出候
                  て様子承被申候事尤に候 馬なと口入れさせ被申候事尤至極に存候 又監物殿もさすか老巧にて能にて
                  もはやしにてもしつまりたる様子偖々御両所共に尤成様子感入候と被申候時拙者も心付申候 肥前唐
                  津には大久保加賀守様に同姓無發勤居候時にて日田に様子承りに参候由其外隣國方々ゟも聞に参り
                  候由無事に成申候其時分は御家中三百石ゟ上の衆皆々馬持申候 隣家に續助左衛門二百石勝手も不成
                  候て致在宅熊本へ罷出逗留の内栗毛の駒求被申候 老父見申さすか龜之助孫と誉申候 島原の働にて二
                  百石つゝ被為拝領候 諸人に勝れ申候ても郡甲太兵衛三百被下候 右之通にて股引さへ調兼申候拙者に
                  二百石被為拝領又御加増都甲同前に成申候事唯今も奉存候 老父三盛御念比に御意の事共被申聞承覺申候
                  八十に成候て如斯書置候志は各心次第にて御用に立被申候様に勤被申候へは忠と奉存候 段々老父被
                  申聞候事のみ書置候 随分心を付同名中申合被相勤候様にとの心に調置候へは孝に可成事共存候
                                                       旦 夕

                            君々の恵みをうけておわる身の
                                      心を残す子末こすへに            
                            見よや見よ思へ思ふそたらちねの
                                      言の葉草の露の水茎
                                                       
                                 八十にて書
                     享保九甲辰十二月二日  堀内旦夕道勝
                            堀内傳右衛門殿
                             同   傳 次殿

                                       
                                                  旦夕覺書終

                  
                   

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■御恵贈御礼「加藤清正文書目録」

2015-03-17 07:13:53 | 書籍・読書

 東京大学史料編纂所研究成果報告2014-1 「加藤清正文書目録」 を、編者のお一人である東京大学史料編纂所の金子拓先生から御恵贈たまわった。
編者は延岡市教育委員会の大浪和弥氏(編者代表)、八代市立博物館の鳥津亨二氏、熊本県立美術館の山田貴司氏、それに金子拓先生の四人である。
613点に及ぶ清正の文書が「文書表題」「年・月・日」「差出」「宛所」「典拠(所蔵先・出典・備考等)」の一覧の表となっている。

又「加藤清正文書の概要」「花押と印判について」「加藤清正の居所と行動」「加藤清正略年表」など、論考なども興味深い。
諸先生方の多大のご努力に敬意を表すると共に、市井の単なる歴史好き爺に過分の御取り計らいを給わり伏して御礼を申し上げる。

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