津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■奥方のふるさと「延岡」

2015-03-12 11:20:41 | 徒然

 

                               

私の奥方は宮崎の延岡が故郷である。「アンサイクロペディア・延岡」をご覧いただくと、延岡人のユーモアに敬意を表したくなるが、 最近話題になった延岡市のポスター「まもなく陸の孤島終了します」「赤と白が目印です」には、思わず笑ってしまった。東九州自動車道の大分県佐伯-蒲江間が開通し、ようやく陸の孤島から脱却したという訳だ。
「赤と白」の目印は延岡市の「主」ともいうべき旭化成の煙突を模している。

宗兄弟や谷口・森下などを擁し、マラソン王国として延岡市は多くの人の記憶に残っていようが、お出かけになった人は・・・如何であろうか。
熊本から延岡へ至る高速道も完成は何時の事やら、私が生きているうちにはまずは難しそうである。
かっては4時間弱ほどかかっていた熊本延岡間だが、いまでは道路事情が改善されて120キロほどを2時間半(スピード違反?)ほどで走ることが出来る。 

現在ご紹介している「旦夕覺書」は終盤に差し掛かったが、編者・堀内傳右衛門(旦夕)が急な藩命で延岡藩(有馬氏)への使いを命ぜられるという一文がある。
これによると「一日一夜」を予定して出かけたというが、とんでもない話で案の定大変な旅になったらしい。
どうやら傳右衛門は豊前街道を進み大津あたりから阿蘇の外輪・俵山の七曲り峠を経て高森に進んだらしい。
再び高森峠を登り色見(しきみ)の岩神の関所をぬけて高千穂へ進んだと思われるが、現在はとんでもない高いところから一気にループ橋で駆け下るのだが当時の道はどこを通っていたのだろうか。
途中で人馬の世話になった礼金を支払おうとしたが、懐中には「銀」のみで「銭」の持ち合わせがなく関所まで引返して何とか工面したりしている。
村人は「提灯」や「傘」をはじめて見て驚いたと記しているが色見村のことか。天孫降臨の地高千穂を含め延岡は明治に入って発見されたと「エンサイクロペディア・延岡」が自虐的に書くように、城下町延岡はともかく山間の地はまさしく陸の孤島であったのだろう。高千穂を越え日之影に下ると、五ヶ瀬川の水運を頼って一気に駆け下るのである。
私が今でもためらう延岡行きをわずか2日程で歩き通した傳右衛門の健脚ぶりにただただ驚かされる。
(それも大雷雨の中、稲妻の光をたよりに七曲りの峠を下ったと記しているが、詳細は「月・19」をご覧いただきたい) 

帰国後、以外に日数を費やしたことを不振がられ傳右衛門は家老から事情説明を受けている。こまごまとした里程や状況を報告したのであろう、その記録は後々のために藩の記録に残されたという。
現在の延岡への旅はまさしく傳右衛門のたどった道を車で走っている。俵山では七曲りを通ることはなく素晴らしい道路で阿蘇南郷へと下っている。
高森から色見をへて高千穂をとおって日之影バイパスから延岡にいたるが、五ヶ瀬川にそう日之影の旧町におりることはない。

幼いころの子供たちをつれての里帰りは、難行苦行の旅であった。 

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■「旦夕覺書」--月・17

2015-03-12 07:30:40 | 史料

                 (参勤の船渡し・あれこれ)

                一、道中馬入の船渡し奉行服部四郎兵衛今一人は覺不申候 御船に被為召御駕に付居申候四郎兵衛は御跡
                  に残り御船にむき跡に心付不申候故御家中荷馬下々迄待居申故人馬道にもみ合申を御船より御覧被
                  成往来のつかへに成ると御意にて御座候時いや此方の人馬と見へ申候由左内初何も申上候へ共此方
                  の者計にて有間敷思召と御せわに候 岩間彌左衛門御駕の跡に居被申候 扇子二本にて開き見せ被申候
                  時に四郎兵衛も合點仕候てうしろ見申候へは人馬つかへ居申を見候て何も船場へ通し申候 其後四郎
                  兵衛無心元被存候哉拙者に尋被申候 御船場に土俵にてはゝをつきたると思召候 兼々被 仰聞候に所
                  の者共定て心遣可仕との御意の時左内被申候は四郎兵衛私に申聞候は御為には不仕候二三日以前に
                  何某様御通りの時に仕置候由所の者共申候故其儘にて召置候由に御座候 能く御申置候と存候 御船に
                  大形むき居申衆多く御座候 少し脇により御船も跡の道筋も見へ候様に重ては御心被付候へと笑々申
                  候 度々道中渡し川船にても天気能く御座候へは仕合雨なと降り俄に大勢参かゝり候ては例へは御意
                  にても思召様に無之候大形が 殿様の方計に心付申候前後左右に心を付あなた此方と御駕近く候て
                  も所により少も不苦候 慮外とは見へ不申候へ共何も遠慮多く却て不調法に見へ申候 ヶ様成時分別て
                  心を大にして氣を廣く所々に眼をつけ可申事と存候 御渡し場斗に心滞り廣き川原上下にて心付候へは
                  他所の者の上下渡候迄見へ申候 兎角物毎人に尋其所々の様子委細尋申候へは心得に成事多く候 此方
                  の初勤候者計に承候ても所の者は他家の事渡し様數度見覺申候 承候て其能き事用度事に候 大形は御
                  目通迄に心付候故前後左右に御心付られ御覧被成り候 或時同名弾蔵歩御使番頭勤候かと覺候 天龍川渡
                  奉行勤申候 相役は覺不申候 溜り申候て川端事の外騒き申候 拙者御供にて能見申候 御通りの時分何方
                  に居申 御目見仕候や見不申候川端にて立居申あなた此方と心遣仕候様に見申様子能く御座候 大方は
                  御目通り近く居申候衆多く候 其時御召船に蓑笠着仕候者御船に参候を御覧被成おれか船に人がのる
                  そふなと拙者に被仰聞候故いや御船のあかを取可申と存候と見へ申由申上候 拙者如申上候右の者御
                  船にのりあかをくみ捨申候 暫御覧被成いや/\御船に被為召候て御待可被成候間御駕遣し候へと被
                  仰付其儘御船に被為召候内にはや不残人馬渡仕廻御船も出し申候 殊の外雨降り水出可申と被思召候
                  と相見へ御駕の戸を左右共に御開き被成上のつき上け両方共に御自身御上け被成候故偖も/\と
                  存候 定めて水つよく出申候はゝ御駕ゟ御出可被成と被思召様に相見へ申候 宮村團之進御側に被居候
                  拙者御先之棒えお取居申候 宮村・傳右衛門水出候哉見申候へと被申候故棒をはなしのぞき見候へはいや
                  /\餘り強くは出ましく思召と御意被成候 無程御船着申候 御供不残川端に御迎に出居申候 林兵助御
                  覧被成兵助御衣類可被召替間近く家御座候處に御入可被遊と被仰付候 無程罷歸御案内御上り場ゟ
                  頓て近くに庄屋と相見へ申所に御駕さへ申候へは八木市太夫通りかけに承居申候哉市太夫偖々能
                  き所に居申由御意被成暫仕御立被成候 翌年御通の刻は家のうしろに藪御座候て道ゟ家は見へ不申候
                  つる藪を切ぬき道の方に門あけ御目見へに罷出居候 唯今も其通候哉と存候 其刻銀子拝領仕候哉非番
                  にて参候道すから駕かき馬方共の咄に假初に被成御座庄屋に御銀被下候御大名様とて皆々申を承候

                一、五十年以前は天龍川渡場廿丁程も川下にて濱松より近く御座候 其時分は河原殊の外廣■御座候て
                  渡し場へ出申候 唯今も其通と存候 初の所は廣く渡場多く候つる 又若き時分は御道中御急き大形夜
                  明不申候内に御出道遠き日は八ツ半七ツに御出被成或時は天龍か和にて下の渡し場は殿様上の渡場
                  は本多中務殿にて未御渡不被成候と相見へ廣き河原に所々に無紋の丸提灯五六間程に一ツ宛足輕壹
                  人ツゝ棒をつき本多殿家中の人馬通り候様に致し舟場も惣供の場には大篝たき御召船の左右には水
                  松明と相見へ申鐡の籠に高さ七八尺計見へ申候 其籠すかし廣く大きに仕内に水松明を二三本入申候
                  御船は不及申三四十間の間は明り能く見へ申候 拙者は其時分は痛足御供不仕候て御先へ参候に此方

                  の船場の筋暗く先へ参候者の聲をしるへに参申候 此方御舟場に大提灯二ツ燈し候て御座候 其刻の本
                  多様は御心安くも無御座候つる 其後の本多様は松平刑部大輔様水戸家 御二男にて御心安く御座候 本
                  多内記様水戸様御聟出雲守様同 御代々御心安く本多能登様も松平左京大夫様御小舅にて御座候 中務大輔様には此
                  方御家ゟ出候本庄四郎兵衛二百五十石御兒小姓立御鐡炮十挺御暇被下候 高橋彌二郎姉聟にて高橋内ゟ咄承申候 貮百石ゟ上は
                  道中馬率せ申由松平安藝守様御家中は江戸にて馬持不申者も道中は引せ候由上田新兵衛殿咄にて御
                  座候 御両家共に道中大事に被成候由に御座候 當御家は前ゟ馬數少く馬船も自分/\に寄合候て借候
                  様に承候 豊前小倉は昔ゟ船多き所にて御座候 鶴崎は御船計故渡不申候哉萬事御上下の渡し方豊前小
                  倉の時御同前にて拙者歩御使番の時は六人に馬壹疋渡申候 後には四人に一疋に成申候 ヶ様の儀迄次
                  第/\に直り申候 右の通故若き時分より上下に差替なと角入・文左衛門に頼申候故何もすり切申と聞へ
                  申候 御中小姓の時に馬のり懸一疋に仕挟箱も一ツ宛一荷に仕相役村井と申合候 其後新知拝領候て
                  も右の心にて通し駕一丁両人にて借り非番には替々乗り申候 此儀十左衛門殿に津川次郎左衛門殿尋申
                  候 いかにも左様と申候へは偖々能き仕様と被申候 後々に御小姓頭三人にて通し駕二丁借被申候 一人
                  は御供騎馬両人の非番乗り被申候様に成り申候 萬事手輕は成兼申候 重くは成り能く候 拙者共新知被
                  下候以後は御中小姓も挟箱一荷持せ候様に成申候 前々には知行取候ても小身は乗懸に荷馬は申合
                  仕立挟箱持せ申は道中歩行の御供役ならては持せ不申候 物毎次第/\に重く成申故勝手も不成候哉
                  と存候 時節々々にて頓て昔しに成候事も可有之候 江戸萬事承候へは其分/\より輕く成行申候と聞
                  へ候 拙者覺へても五六十年以前は御小姓頭田邊平助なとは木綿ふとんにて不断暮被申候由遠坂關内
                  殿被申候 其關内殿千石に成候て御小姓頭の時熊本にて結構成るとんす(緞子)夜の物ふとん拵被申候故拙者
                  申候は前廉御咄の田邊殿木綿ふとんは御失念被成候哉と申候へは唯今能思へば江戸にて頓申時は外
                  の醫者にも逢候事いかにも外聞は上へ對し候事おこりにてはなく候由咄被申候 如斯に成行候故拙者式
                  も後々は絹のふとん夜物迄持参仕候様に成行申候  
               

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