私の奥方は宮崎の延岡が故郷である。「アンサイクロペディア・延岡」をご覧いただくと、延岡人のユーモアに敬意を表したくなるが、 最近話題になった延岡市のポスター「まもなく陸の孤島終了します」「赤と白が目印です」には、思わず笑ってしまった。東九州自動車道の大分県佐伯-蒲江間が開通し、ようやく陸の孤島から脱却したという訳だ。
「赤と白」の目印は延岡市の「主」ともいうべき旭化成の煙突を模している。
宗兄弟や谷口・森下などを擁し、マラソン王国として延岡市は多くの人の記憶に残っていようが、お出かけになった人は・・・如何であろうか。
熊本から延岡へ至る高速道も完成は何時の事やら、私が生きているうちにはまずは難しそうである。
かっては4時間弱ほどかかっていた熊本延岡間だが、いまでは道路事情が改善されて120キロほどを2時間半(スピード違反?)ほどで走ることが出来る。
現在ご紹介している「旦夕覺書」は終盤に差し掛かったが、編者・堀内傳右衛門(旦夕)が急な藩命で延岡藩(有馬氏)への使いを命ぜられるという一文がある。
これによると「一日一夜」を予定して出かけたというが、とんでもない話で案の定大変な旅になったらしい。
どうやら傳右衛門は豊前街道を進み大津あたりから阿蘇の外輪・俵山の七曲り峠を経て高森に進んだらしい。
再び高森峠を登り色見(しきみ)の岩神の関所をぬけて高千穂へ進んだと思われるが、現在はとんでもない高いところから一気にループ橋で駆け下るのだが当時の道はどこを通っていたのだろうか。
途中で人馬の世話になった礼金を支払おうとしたが、懐中には「銀」のみで「銭」の持ち合わせがなく関所まで引返して何とか工面したりしている。
村人は「提灯」や「傘」をはじめて見て驚いたと記しているが色見村のことか。天孫降臨の地高千穂を含め延岡は明治に入って発見されたと「エンサイクロペディア・延岡」が自虐的に書くように、城下町延岡はともかく山間の地はまさしく陸の孤島であったのだろう。高千穂を越え日之影に下ると、五ヶ瀬川の水運を頼って一気に駆け下るのである。
私が今でもためらう延岡行きをわずか2日程で歩き通した傳右衛門の健脚ぶりにただただ驚かされる。
(それも大雷雨の中、稲妻の光をたよりに七曲りの峠を下ったと記しているが、詳細は「月・19」をご覧いただきたい)
帰国後、以外に日数を費やしたことを不振がられ傳右衛門は家老から事情説明を受けている。こまごまとした里程や状況を報告したのであろう、その記録は後々のために藩の記録に残されたという。
現在の延岡への旅はまさしく傳右衛門のたどった道を車で走っている。俵山では七曲りを通ることはなく素晴らしい道路で阿蘇南郷へと下っている。
高森から色見をへて高千穂をとおって日之影バイパスから延岡にいたるが、五ヶ瀬川にそう日之影の旧町におりることはない。
幼いころの子供たちをつれての里帰りは、難行苦行の旅であった。