津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「旦夕覺書」--月・21   

2015-03-15 09:09:12 | 史料

                (堀内傳右衛門が晩年に内容を知った二つの起請文)

                  敬白起請文前書之事
                一、今度信長御不慮に付而無比類御覺悟特頼敷存候條
                  別而入魂申上者表裏無據公事御身上見放申間敷事
                一、存寄儀不残心底御為能様異見可申事
                一、自然中意の族之者互に直談を以可相濟事
                      右之條々若偽於有之者
                神文略之 
                                羽柴筑前守
                    天正十年七月十一日      秀吉血判
                         長岡兵部大輔殿
                         長岡  與一郎殿

 

                  敬白天罰起請文之事
                一、世上萬雛有逆心之不與其黨者事且奉對
                  殿下様毛頭無別心可勵忠貞事
                一、以前芳志當分忝之儀向後不可致忘却候御両所も被
                  加御愛燐無御目捨様頼存候事
                一、令上京候以来爰許之諸立廻随分所見及雛心懸之生
                  得田舎者故何角御合點に不参儀可多之候寔心違
                  千萬に候以此旨被成御納得不差置幾度も御指南所
                  仰候遠國之儀候間不存寄事自然可有讒者等之與左
                  様之刻被仰出於御糺明者乍憚愚意亦可申上事
                  右之條々於偽申上者
                神文略之 内ニ薩洲鎮守鹿児島権現アリ略
                     天正十六年八月廿七日島津修理入道龍伯血判
                        石田治部少輔殿
                        長岡兵部大輔殿

                右の二色は此比見出申候 拙者は初て見申候故寫置
                候 前々ゟ薩摩守様御代々御心安きは此故にて可有
                御座哉古今集の御傳受も御家譜に相見へ申候 


                 

                                                                 敬白起請文前書


                

                                      敬白天罰起請文

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■御手討ちのあった家と漱石夫妻

2015-03-15 08:21:52 | 徒然

 夏目漱石の句に 涼しさや裏は鐘うつ光琳寺 がある。漱石が 衣更へて京より嫁を貰いけり と、鏡子夫人を熊本に迎え結婚式を挙げた(明治29年6月)のが光琳寺の裏手にあった家で、かっては家老の御妾さんがすんでいた(?)少々粋な造りの家だったという。9月新婚旅行のつもりか二人は筑紫・大宰府に出かけている。
ところが帰って早々この光琳寺町の家から合羽町に転居しているのだが、どうやら裏手にお墓があることや、件の住人である御妾さんが不義を働き御手討ちにあったとかで夫人が御気に召さなかったのが原因らしい。わずか三か月ほどしか住んでいない光琳寺町でこの句は作られたことに成る。
今は歓楽街となったこの界隈、千鳥足であるく人たちはそんな歴史などは御存じあるまい。
私の興味はその家老と云う人が何方なのかといういささか不謹慎な疑問なのだが、いまだ知ることが出来ないでいる。どなたかご存じあればご教示いただきたい。 

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