老中・相模小田原二代藩主 稲葉正則
一、光尚公稲葉美濃守 號㤗應 御同年にて御代々御別ての分御座候 美濃守様相州小田原御在城の時分箱根山
の道能く被成候時分於江戸二三萬石より下小身成衆の御批判に箱根山は大事の御關所美濃守殿若き
に御合點不参候て道能被成候との沙汰
光尚公御聞被成候て或時大勢御咄被成候刻右の沙汰を承候拙者事代々美濃守と心安幼少の時より咄
申候贔屓にて申事にてはさら/\無之候 御静謐の時分別て往来の者のために候故道を能被仕候は拙
者は尤と存候 大事の御關所と申衆は幼弱成る批判と存候 皆共の様成る大身成る衆を在江戸被仰付候は
其為にて關所におよひ不申候 小身なる衆の批判には無餘儀事と存候由御意被成候由總體御旗本小身
成五六萬石より下の衆は
光尚公しかりたる由承及申候 右の段々書付置候通に護ぞ候へは左も可有事と存候 松平左京太夫様被
仰聞候由江村節齋咄承候様に御在世の時分は 公方様にも御懇比に被思召たる事は乍憚御尤と奉存
候 御三十一にてご逝去御残念に被思召候由御尤に奉存候 信康公の御孫子の御子にて御家門と思召
たると乍恐奉存候
豊後国臼杵藩の第4代藩主 稲葉信通
一、稲葉能登守様は 光尚公御従弟にて御城臼杵にて毎度御城御自慢之御咄被成候故或時 光尚公能登
守様に被 仰候は毎度御城咄承申拙者なとか前にては少御遠慮可被成候 尤前々ゟ承及候併俗に申様
は小城はさゝゐ城とてから共に皆箇様成者は取捨申と御笑被成候由右の能登守様は長命に御座候 私
在江戸の刻熊本御通の刻泰勝寺の前にて御乗物ゟ御下り被成候由 三齋公の御孫子様御尤成事と其
城御受取御座候時也
刻申たると後の三盛拙者被申聞候 唐津か島原か御越成候時の事と承候 其時分は江戸に居申慥に覺
不申候
一、在江戸の時芝御屋敷ゟ方々被成御座事の外草臥申候處に御意被成候は御歸被成候て少御用の事有之
御留守分に可被仰付間御駕御玄關前を通り不申谷小屋の前を遣候へと被仰付候處に致失念小屋に歸
り足を洗申時に何やら忘れ申候刀脇差はおとし不申哉大事の儀とさくり見申程に神以草臥さくり見
申候へはさし居申候 不斗右の御意を思ひ出し片足あらひさし其儘走り参候へは御駕いつものことく
御玄關前通可申と参候處に是是と呼懸候て谷小屋通り候へと申付候 二三間の間にて呼戻申候 偖々あ
ふなき様子偏に/\神佛の御蔭と八十に成候ても少も忘れ不申候 此外心付見可被申候 拙者事度々あ
ふなき事のかれ申候たるは常々 神信仕故と奉存候間必々各能心付神佛敬信心に勤可被申候 興津才
右衛門・小笠原勘助事書置申候 両人共に御家中一人の利口發明と申者の仕損其外御勘気蒙り御暇被下
或は病死にても又は其家つふれ申も皆々天罰と心得被申吟味可被仕候
心たに誠の道に叶ひなは 祈らすとても神や守らん
拙者儀身に覺度々 神佛の御助と奉存候事數度有之候故子孫の為と返す/\も書置申事に候
一、御下國にて妙解寺・泰勝寺へ御参詣の前の夜明朝は六ツ過に揃申様にと申來候故母へ股立取候て御城
の太鼓打出し候はゞ罷出可申と相待居候へは御待被成候故にて御駕の者走り参候故急き参候處に
其刻櫻馬場三盛屋敷に居申候時にて橋の邊に参候へは亦呼に参候 川端黒御門よりはいり馬場の口に
被成御待其儘被為召御出御成候 其後角入に参申候へは正壽院被申候は右の咄平八にも被申聞能承候
へは角入は御小姓組の時分ゟ朝番の時御門開き不申内にて前の腰懸にて休み候て御門開入り申候に
勤申候御結構成 殿様故に傳右衛門は定て城の六ツを聞候て可出と思召候 御花畑の拍子木今朝は少
早く未 御城の太鼓は打不申との角入へ被 仰聞候由弾蔵覺居可申候 老父も半時一時人ゟ早く起勤
め申事御奉公の第一と被申聞候 角入被申同前の事にて初心成る時は早拵候得共功者に成候程必々何
事にても仕損申候