寛文九年十月六日、北嶋三立(雪山)や小姓頭・朝山次郎左衛門をはじめとして十九名の者が御暇を出された。同日付「肥後藩御奉行所日帳」には主に「陽明学徒」を主としているが、併せて切支丹宗門の為や、役向きの失策、不行跡の者も含まれていたという。(高野和人著:北嶋雪山の生涯よりp83)
下に記す小笠原勘助は、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の孫・民部長光(二代)の三男長義である。私はずっとこの人も「陽明学徒」であると思い込んできたが、この「旦夕覺書」が真実を教えてくれた。(こういうビッグな記述に出会うから、ご苦労なこったいと言われながら続けられるのである)
一、小笠原勘助と申す五百石被下いか様島原の時は榊原飛騨殿手にて働たる様に承及ひ候 御側筒十五挺同
名文左衛門同役にて御家中一番の口聞興津才右衛門よりは上と申候 老父なとは慮外者と文左衛門咄
被申候事覺申候 江戸にて讃岐守様御初駕の刻晝の御休にて御使者勤申筈の處に休息仕居申下々も臥
寝忘れ肝つふし御一宿へ参候て勤申御廣間に直に罷出申箇様/\と少も遠慮なく罷出申上候 小屋に
歸り相役の誰そ頼候て箇様/\とて遠慮仕候はゝ御暇被下候様には有之間敷物と何も申候 拙者初江
戸にて能覺申候 箇様の御使者はいか成る不調法者も勤申事に候 平生は口聞發明にて人を何とも不存
神佛なとは不及申上天の恐れなと夢にも見ぬ男にて隈本にて御暇被下候 その後拙者京都に御茶つほ取
に参候て朝山次郎左衛門牢人被致佐賀(嵯峨カ)に被居候 老父は朝山齋寄親の様に被存養子にて候故拙者に
寄候て無事なる様子承候得と被申候 拙者に勘助申候は偖々久々にて得御意候先心得に成候事咄可申候 御
使に桑名抔通り候刻家来にても手討仕間敷候 此比紀州様御家来何某と申仁早使に通候刻桑名にて家
来手討に仕候 宿主即刻松平越中守殿へ申候へは御留置にて紀州へ被仰遣候て御家来まきれ無之との
家老共ゟ使者参りて通申候 右の使者早打の由断申候へとも國法にて御座候由勘助も初て承候 拙者も
存ましき由にて咄被申候 勘助被申候は私儀は如御存うつけを盡し如斯仕合にて候随分/\御奉公可
被御精出候 拙者は紀州に縁御座候て久敷逗留仕関東にも隙にて居候へは松島迄見物に参申候て方々
承申候 熊本の様成る所は無御座候 御家柄と申随分勤候へと被申候 山名十左衛門殿も御親父以来別て
今の田中又助も初江戸の刻桑名とかにて咄申由今の又助三歳の時御暇申たる由今又助咄被申候 牢人仕
思ひ知り可申候 右の仕合假初にも輕き事にても御奉公實に心得候はゝ寝入可申様なく候得共誰も勤
る事とおろそかに存不實にて天罰蒙り候と存候
小笠原勘助のその後の消息は知れないが、別録で独立していた嫡子の流れがある。
● 小笠原(加々美)勘助長義 (小笠原長光 三男)
(1)五番西郡要人佐組 三百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)御使番衆 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(3)寛文九年十七日御暇被遣候 五百石(※陽明学徒追放による)
勘助長義--又右衛門--権右衛門長次--権右衛門長友--又左衛門長勝(新五 又兵衛)
↓
● 小笠原又右衛門 三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
有吉内膳組・十挺(頭) 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)