津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生 第135講

2015-03-20 10:57:18 | 史料

           入会は「いりあい」と読むが、随分以前地元放送局のアナウンサーが、入会権を「にゅうかいけん」と読んだのを今でも覚えている。
          ある方は御先祖様の事をいろいろ調べておられたが、罪を得た人がおられた。無断で山に入って木を切られたことによるという。
          ご子孫としては大変ショックなことであったらしく、なんとも声のかけようがなかったことを思い出している。 

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■綱利公の参勤

2015-03-20 07:07:47 | 史料

細川綱利公は7歳で父・光尚の遺領を相続したが、幼少であったため初のお国入りは寛文元年19歳の頃である。
この初入国の行列は行く先々で評判を呼ぶほど美々しいもので、国元の家老たちのひんしゅくを買った。
江戸家老澤村宇右衛門の指示するところであったらしいが、江戸定の奉行が割を食い知行召上げとなった。
澤村宇右衛門は松井康之の姉の孫にあたる人で命により寛永十年澤村大学の養子となった人である。 

72歳で亡くなるまで都合22回参勤をしているが、帰国については、元禄17年が宝永元年と改元されて以来、毎年の如く滞府(在江戸)の願いをだして帰っていない。養嗣子・宣紀が家督する正徳2年まで九年間に及んだ。生母・清高院が宝永7年に亡くなっているが、老齢の母を思っての事かいささか異常にも思える。
この間の綱利の滞府について、朝日定右衛門の「鸚鵡籠中記」には、宝永四年五月のこととして「頃日の江戸の沙汰に云、細川越中守も在江戸の事は、在国にてはあのふ行跡にては、執権共に押込らるべきやとて在江戸のよし」と記している。帰国すれば国元の家老達に「押込め」にされるというわけだが、家督もゆずる気配もないため江戸家老・木村半兵衛が綱利の居間近くの詰間に三日詰めて決断を促したという(肥後先哲偉蹟)。

一、寛文元年(1661)九月十八日熊本御発駕 十月廿二日江府御着
一、寛文四(1664)年六月十一日熊本御発駕 七月九日江府御着
一、同六年(1666)三月四日熊本御発駕 四月十三日江府御着
一、同八年(1668)三月四日熊本御発駕 四月四日江府御着
一、同十年(1670)七月五日熊本御発駕 木曽路御旅行 八月七日江府御着
一、同十二(1672)年二月廿二日熊本御発駕 三月廿二日江府御着
 「延宝元年癸丑七月廿三日、於筑後北の関、肥後の士前川勘右衛門と藤田助之進同嫡子縫殿之進意趣有て及闘争、前川勘右衛門従兄十左衛門助力して藤田父子を討取」と云う事件が起きた。旦夕覺書には「山名十左衛門藤田助之進父子北の關にて打果し被申候 翌春御参勤の道中は大形」心かけ申候」とある。その後小倉路を経て参勤した際、綱利はその地に態々駕籠を止めたとされるが、この年表によると小倉路を通ったのは元禄十五年が初めてだとある。この話は参勤ではなく、帰国の時ではないのか検討を要する一件である。

一、延宝二年(1674)二月十一日熊本御発駕 三月七日江府御着
一、同四(1676)年二月十四日熊本御発駕 三月十三日江府御着
一、同六(1678)年九月十一日熊本御発駕 十月十一日江府御着
一、同八年(1680)七月十八日熊本御発駕 木曽路御旅行 八月十三日江戸御着
一、同二年(1682)三月六日熊本御発駕 四月七日江戸御着
一、貞享元年(1684) 天和四年改元 三月十日熊本御発駕 四月六日江戸御着
一、同三年(1686)閏三月六日熊本御発駕 四月六日江戸御着
一、元禄元年(1688) 貞享五年改元 三月四日熊本御発駕 四月七日江戸御着
一、同三年(1690) 三月四日熊本御発駕 四月四日江戸御着
一、同五年(1692)三月四日熊本御発駕 四月四日江戸御着
一、同七年(1694)三月四日熊本御発駕 四月九日江戸御着
一、同九年(1696)三月六日熊本御発駕 四月十一日江戸御着
一、同十一年(1698)三月四日熊本御発駕 四月九日江戸御着 初而小倉路御旅行
一、同十三年(1700)二月廿八日熊本御発駕 四月三日江府御着
一、同十五年(1702)二月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着 小倉路中国路御旅行
一、宝永元年(1704) 元禄十七年改元 三月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着



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