ご厚誼をいただいている熊本在住の近世史家・福田正秀氏が、今般雑誌「サライ」に新しく「武蔵に尋ねよ」を連載されることになった。
4月号から12回にわたるというから、又一年間ご苦労が続くわけである。
2003年に『宮本武蔵研究論文集』、2005年に『宮本武蔵研究第二集・武州傳来記』を上梓された。綿密な現地調査・史料調査をされ新たな武蔵像を確立された。もう10年も経過したことに驚いているが、その間の新たな発見などもあるのではないかと思われ、今回の連載を楽しみにしている。
また2007年の『加藤清正「妻子」の研究』、また2012年の『続 加藤清正「妻子」の研究』の発刊とその成果にも驚かされたが、氏のあくなき探究心は今後も我々を驚かせ楽しませてくれるものと大いに期待している。
(長岡勘解由延之のこと)
一、江戸酉の年大火事は拙者十三の時にて候 御城御本丸も焼失仕候 公方様は即刻御機嫌能西の御
丸へ被成御座候由熊本へ申來候 偖其時分熊本にて老父所に老巧の衆なと咄茶の宮仕いたし來候 右の
火事の砌長岡勘解由(沼田延之)殿詰居被申候はゝ御十五綱利公御幼少に被成御座候へは御兄弟共に御供仕西ノ
御丸へ即刻御登城被成為御用御機嫌御伺被成候はゝ御代々御忠節此時に彌御感可有物をと古佐渡殿
古監物殿御噂の由御家中之歴々同前に何も被存候由咄を覺申候 勘解由殿は江戸にても事の外宜く能
き御家老と申たる由御家中は不及申京都にて被致病死候へは熊本は火の消へたる事の様に沙汰仕候
由勘解由殿手柄と何も被申候儀も覺申候
(堀江勘兵衛のこと)
一、初て御入國は拙者十七の時にて未致御目見候 皆とも立田に大勢罷出見物仕申覺申候 後に承候へは江
戸にても道中にても珍敷結構成る御供行列と申たる由其時の江戸御奉行堀江勘兵衛は 先御代よ
り千石被下御奉行一人の埒明と申候 江戸御立の御用意に大分御銀入申候 澤村宇右衛門殿差圖の由に
て熊本の御家老中事の外立腹にて堀江勘兵衛は知行千石被召上四十人扶持被下宇土邊に引籠致病死
候 堀江は唯今の伊藤又右衛門ゟ母方の伯父かと覺申候 惣躰角力御數寄男すき被成候儀も皆宇右衛門
殿召れたる様に後々迄十左衛門殿舎人殿なと御咄承候事
(御次衆新知御加増)
一、三度目御参勤の刻若狭守様(新田藩初代・利重)へ三萬五千石二度の御下國長岡を細川に被成修理殿(尚房)に二萬石被下候 御次
方にも新知被下候 大形覺候は
新知五百石 木村半平
同 四百石 坂崎忠三郎
同 三百五十石 續 團右衛門
同 三百石 江村悰川
同 同 江村節齋
同 二百五十石 新居十左衛門
同 坂牧瀬兵衛
同 本庄四郎兵衛
同 浅香市郎左衛門
同 石川源左衛門
同 長永長次郎
同 二百石 不破五郎右衛門
同 内藤市助
同 佐川儀太夫
同 岡田茂兵衛
同 百五十石 高瀬善兵衛
同 末藤新右衛門
同 梅原毛三郎
同 末松金右衛門
同 野田三郎兵衛
同 菅野甚齋
同 百石 栗野又兵衛
同 松崎彌兵衛
同 吉村市左衛門
御加増被下候衆は覺不申候
山本 志水 岩間 堀 大河原