「完本 文語文」の著者山本夏彦は、その著のなかで谷崎潤一郎の言葉として「候」について次のように記している。
谷崎潤一郎は昭和九年現在の候文は、「候ところ」「候まま」「候あいだ」などと続けすぎる、候は句点(「。」)である、
以前の候文は「候」と言い切ってこんなに続けなかった、これは口語文の悪影響だと言っている。
厳密にいえば基本的にはこのような活用はないとされるが、これは口語文の悪影響とも思えず実際上は多いに見受けられるものである。
例えば「旦夕覺書」や「拾集記」、その他の多くの古文書をタイピングしてみると、「候ところ」「候まま」「候あいだ」は随分多く使われている。
谷崎の主張には賛同しかねる現実がある。候が句点」であったならば、その一行の意味が明快にわかり随分楽であったろうなと実感してきた。
・・・・・候處・・・・・と続いてそれから一仕切の文章がつづき、扨てこの文章が言わんとしていることは何なのかと、振り返って読み返さなければならないほどである。句読点のない候文は目と頭で少々先を見ながら読まないと、確実に文意をとらえることが出来ない。なんともやっかいだが、これが古文書にふれる楽しみだと思えばあまり苦にもならない。もっともいまだに理解できない文章が多々あって限界を感じている。