津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■朽木家のこと「閑話休題」

2017-12-08 22:07:42 | ご挨拶

 朽木家の事をいろいろ書いている。ごたごたではないが定彦さんを内匠殿の順養子にしようとするについての経過である。
現在ご紹介しているのは「八代朽木家取扱い之扣写」だが、その(一)の手紙の発信人が判らずに来た。
ここでは「遊印」と書かれている。この文書は原本ではなく、米田家の関係者(右筆か)により写し取られたものである。
この扣は次の如く十一通の手紙が収録されている。

    (一)文化十二年霜月十八日付、宛名・内匠殿  遊印
    (ニ)四月三日  く川き内匠殿へ       紫英
    (三)四月    紫英様           内匠
    (四)戌五月二日 帯刀様 内匠取次      三渕嘉門
    (五)六日    ミ川ふち嘉門様       紫英
    (六)十日      同上          同上
    (七)四月九日  内匠殿           遊判
    (八)七月十三日 帯刀様           朽木遊山
    (九)三月    游山様           帯刀
    (十)四月八日  帯刀様           朽木遊山
   (十一)四月十四日 帯刀様           朽木内匠

この様にリストにしてみると「遊印」「遊判」のほかに、朽木遊山の記名がされているものがある。
「ゆうざん」と号する人物が居るが、これは7代・昭桓のことで私は「雄山」だと承知していた。
「肥後先哲偉蹟」によると「俊嶽院殿顕外雄山大居士」としているからそう思い込んでいたのだが、「遊山」が本当なのかもしれない。
そうすると手紙の内容が良く理解できるようになる。
ちなみに朽木雄山(遊山)こと昭桓成る人物は、
       寿八郎・多仲・内匠、実郡織衛眞峯四男、六代昭直の女婿
       寛政五年家督、用人・大目附・家老職、文化十二年十二月致仕
       文政四年三月十九日歿、七十七歳

後は自らを「松井系」と称していることが理解できないでいた。
こちらは上記郡織衛眞峯四男がヒントになった。これは「細川藩主要家臣系図」から引用したものだが、眞峯ではなく眞武の間違いであり、郡織衛眞武は松井本家七代・豊之の弟だったのだ。眞峯は眞武の嫡男であり郡家の4代目である。弟眞俊が三渕家に養子に入ったが21歳の若さで亡くなり、末子・多仲が朽木昭桓である。
これで昭桓及び養子の内匠が松井家の血脈であることが判明した。
先にご紹介した系図を書き直そうと思っているが、線が入り乱れてなかなか難しい。そのうちに改めてご紹介しようと思っている。
           

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■忠利公肥後入国の日

2017-12-08 09:58:50 | 歴史

 寛永九年(1632)の明日十二月九日、忠利公が熊本城に入られた日である。
385年という歳月が流れているのだが、毎日細川家の歴史に触れていると、何事も大変身近に思われて、そんな永い時の流れは感じられない。

                        画像

司馬遼太郎はその著「春灯雑記」の中で、86頁の長きにわたり「護貞氏の話‐肥後細川家のことども」を書いている。
忠利の肥後入国の逸話として、護貞様のお話をそのまま引用し、「忠利は、あの天守台の台上にのぼって、はるかに(加藤)清正の廟所にむかって平伏したそうです」
「いまからあなたのお城をあずからせていただきます」と紹介している。

若干ニュアンスが違うように思えるが、大方においてそうであったのだろう。肥後国人の清正に対する思いに対しての忠利の深い気遣いがそうさせたのであろう。
そして熊本城の大きさに驚いているが、忠利の自尊心を大いに刺激したことではあったろう。
天草島原の乱における忠利の活躍は病がちであった自身の寿命をちじめた。寛永十八年正月没、妙解院羽林臺雲宗伍、五十六歳。

わずか八年余の熊本治世であった。

昨年の熊本大地震では、目を覆うばかりの熊本城の惨状に熊本人は大いに涙したことであった。
忠利公が加藤清正の廟所を仰ぎ見た天守は、現在復元工事の為に覆屋根のなかにある。一両年のうちにはまた復元なった天守を拝見できるだろう。
忠利公入国400年までにあちこちで崩壊した石垣の修復はどこまですすむのか、いずれにしてもその時期まで生きている自信はないのだが・・・
明日は出水神社にお参りをして、忠利公の銅像にお目にかかってこようと思っている。

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■八代朽木家取扱之扣写(一)

2017-12-08 09:16:59 | 史料

 この書状を誰が書いたのかが判らないのだが、私は内匠の養父・七代昭桓ではなかろうかと考えていたのだが、どうもそうでもないらしい。
昭桓の娘二人が、昭信(定彦父)と内匠に嫁いでいる。昭桓の室が朽木家男系最後の当主昭直である。
そのような人間関係を理解してこの書状を読むと、昭桓が娘婿に宛てた手紙と解するのが妥当な処なのだが、文中の「貴殿拙者は八代(松井家)の血脈」という一文からすると該当しない。
松井系ということからすると、八代営之の子で嫡男・松井九代の徴之、三男・松井分家の誠之(直記)、四男・三渕澄昭(嘉門)と内記本人ということになる。系図を片手に謎解きが果てしなく続く。


                 定彦儀何方成共養子遣可申所存
                 近比九郎太郎仮養子相究候事御座候
                 然處能々相考候得先祖大和守様(三渕藤英)之血脈
                 観龍院様(六代昭直)限終漸女系之血筋定彦
                 残り居家良養方之本妻之娘之腹致出生候

                 定彦事候得是を貴殿順養子御願候而  
                 跡を御譲候様有之度存候 信記事ハ又定彦
                 順養子相成被申定彦之子ハ又信記(内匠昭久)順養子
                 と一代越之順養子相成候ハヽ子孫■之栄
                 可有之第一ハ先祖對シ孝道を可申と存候
                 最早大和守様ゟ之血脈ハ断絶致し女系之
                 残り居候定彦・典禮・丹右衛門源今之式部殿
                 より外ニハ一向無之候 貴殿拙者ハ八代之血脈而  
                 大本
                 幽齋君ゟ續居申候
                 幽齋君者室町之公方御落胤之由御先祖
                 附ニ茂出居申候然者
                 幽齋様と大和守様御兄弟ニ而御座候へ共御腹替
                 尓而貴殿と拙者ハ公方様之血脈ニ而至る元祖
                 同流ニ而有之候得共願クハ大和守様之血筋を家
                 殘■■万孝道ニ當り可申様ニ存候 貴殿と定彦
                 年齢大違無之信記定彦ハ猶又漸六ツ違候得共
                 代替近り可有之候へ共両人共文武藝術等
                 出精有之候御知行茂減申間敷何年右之通
                 之趣貴殿御内心御極メ置候而追々右様
                 成行候様頼入候右儀ハ紫英・野沢等江茂
                 未咄茂致不申拙者一存道理之至極と存候間
                 相想入披見置候以前之所存と違候所ちろへろ
                 之様聞成シ人茂可有之候へ共御考御披見
                 可給候以上
                   文化十年
                     霜月十八日     遊判

                    内匠殿

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