朽木家の事をいろいろ書いている。ごたごたではないが定彦さんを内匠殿の順養子にしようとするについての経過である。
現在ご紹介しているのは「八代朽木家取扱い之扣写」だが、その(一)の手紙の発信人が判らずに来た。
ここでは「遊印」と書かれている。この文書は原本ではなく、米田家の関係者(右筆か)により写し取られたものである。
この扣は次の如く十一通の手紙が収録されている。
(一)文化十二年霜月十八日付、宛名・内匠殿 遊印
(ニ)四月三日 く川き内匠殿へ 紫英
(三)四月 紫英様 内匠
(四)戌五月二日 帯刀様 内匠取次 三渕嘉門
(五)六日 ミ川ふち嘉門様 紫英
(六)十日 同上 同上
(七)四月九日 内匠殿 遊判
(八)七月十三日 帯刀様 朽木遊山
(九)三月 游山様 帯刀
(十)四月八日 帯刀様 朽木遊山
(十一)四月十四日 帯刀様 朽木内匠
この様にリストにしてみると「遊印」「遊判」のほかに、朽木遊山の記名がされているものがある。
「ゆうざん」と号する人物が居るが、これは7代・昭桓のことで私は「雄山」だと承知していた。
「肥後先哲偉蹟」によると「俊嶽院殿顕外雄山大居士」としているからそう思い込んでいたのだが、「遊山」が本当なのかもしれない。
そうすると手紙の内容が良く理解できるようになる。
ちなみに朽木雄山(遊山)こと昭桓成る人物は、
寿八郎・多仲・内匠、実郡織衛眞峯四男、六代昭直の女婿
寛政五年家督、用人・大目附・家老職、文化十二年十二月致仕
文政四年三月十九日歿、七十七歳
後は自らを「松井系」と称していることが理解できないでいた。
こちらは上記郡織衛眞峯四男がヒントになった。これは「細川藩主要家臣系図」から引用したものだが、眞峯ではなく眞武の間違いであり、郡織衛眞武は松井本家七代・豊之の弟だったのだ。眞峯は眞武の嫡男であり郡家の4代目である。弟眞俊が三渕家に養子に入ったが21歳の若さで亡くなり、末子・多仲が朽木昭桓である。
これで昭桓及び養子の内匠が松井家の血脈であることが判明した。
先にご紹介した系図を書き直そうと思っているが、線が入り乱れてなかなか難しい。そのうちに改めてご紹介しようと思っている。