雑色草書を再開することにしました。又お楽しみください。
一〇五
一新座年行司諸出方之稜々、近年甚猥敷相成候由ニて、當年行司、本坪井町永山甚次郎より依願左之通
一役者中、合力銀先借シ不致す様ニとの儀は、去年十二月及達候、右合力銀、両御神事前半分宛相渡可申候
但、役者中、合力高之儀別紙在之
一正月七日謡初、人數不相増様ニとの儀も去年十二月申達候、以来役者之内相談、大躰十人程ニ相定申候
一六月八日衣装改之節之人數之儀も、去ル安永元年申達候通ニ付、重畳減少有之、人數可被相極置候
一惣て作物入目費ヶ間敷儀、無之様ニ堅可被申付候
一襟・足袋等、年々餘計ニ失墜有之様子ニ相見候、向後年番より精々遂吟味、罷出候者共迄ニ相渡可申候
一賄料夫銀之儀、年々相勤候者迄ニ可相渡候
右之通及達候、詮議之旨趣、其外委キ儀ハ、日帳ニ記置候條、時ニ臨可遂吟味事
右天明二年四月
一〇六
一町中物書、肝煎給銀之儀、諸色高直付て、依願去ル安永六年酉十月より翌戌四月迄、物書え拾匁、肝煎え七匁宛
増割賦被仰付、其後年々両度宛限り/\ニ引継願出、其通申付來候處、諸色直段之儀は、差寄素ニ復シ可申勢
ひも見へ不申、年々両度宛引継願出候ハ煩敷事ニ付、旁此節、月限無シニ先當分増方被仰付段及達候、諸色
直段一統引下ヶ候時節ニ至り候ヘハ、素ニ復シ申筈候事
右天明二年四月日帳
一〇七
一往来手形不致所持旅人ハ、一宿も難成筈ニ候處、間ニは町家之者馴合、商賣いたす者も有之段相聞、不埒之至
候、若右躰之者於有之ハ、火廻之面々より宿所をも見届せ、書付を以被相達筈候
一町家之二階ニ火を灯候儀不苦候、尤及深更、明り強火用心無心元相見候ハヽ、火用心之儀心を付被申筈候
一自身番幷町番所、及深更候ヘハ明りも無之所々有之由、町中番之儀ハ兼て御達も有之候處、右躰之儀是亦不埒ニ
候條、廻り方等精々入念候様、若明りも無之番所ハ火廻より心を付可被申候
一右之通ニ付、自身番之儀ハ、壹人ニてハ續キ申間敷候條、組合候て可相勤歟、何れ當九月迄之内仕法可相達候
右之通及立候、尤右之達、根元新坪井鳥町善兵衛と申者方之二階ニ火を灯有之候を、火廻御物頭より咎メ有之候
より事起り及達候事
但、委キ儀ハ日帳ニ記置候條、事ニ臨ミ吟味
右天明二年四月
一〇八
一町中作事料拝借之事、今迄ハ利無シニて候處、以来纔宛之利付を以拝借被仰付筈候、尤所柄ニより高下有之、大
略左之通
一他所往還筋一割五歩成減(ママ)、十ヶ年又ハ十五ヶ年賦
一其外之往還筋ハ貮割ニて右同断
一枝町之願ハ、容易二難成事候得とも、無餘儀様子ニて拝借被仰付候ヘハ、是又貮割ニ〆右同断
右之通相定り、其趣懸/\えも及達置候事
右天明二年四月日帳
一〇九
一新三丁目別當彦左衛門・八兵衛より内意申出候ハ、大坂・長崎え罷越候者、添手形之儀、三丁目懸りハ、従前々門
名を専ラニ用候付、右手形も門名ニて仕出來候、他懸りハ苗字用候事ニ付、脇並ニ苗字ニて仕出申度由申出候付、
其通及達候、尤客帳などニ加印いたし候付て、勤役中ハ苗字御免被仰付被下候様ニ願出候得共、此儀ハ難叶候
「朱印」「明和元」
右寶暦十四年四月諸願扣
一一〇
安永七年戌二月
「今京町久左衛門、為参宮罷越候節也」
今京町別當、何れも苗字無之候處、添手形ニ名計調出候ニ付、前条之類例を以、添手形ニハ苗字を調出候様申付候事
一一一
一古市宗圓支配之浪人大野半助、鹽屋町武次郎宅を借り申度由ニ付、當分借シ度段願出候得共、士席浪人町在居住
之儀ハ、見合も無之候ニ付、難叶旨及達候事
右明和五年十二月町方諸願扣
一一ニ
「長岡左七郎組御番方也」
一岡十郎左衛門隠居病身ニ付、為保養出京町伊兵衛と申者之屋敷裏ニ居住いたし度由ニ付、借シ申度段願出候、御
士之隠居町居住之儀は、類も無之、下賤之者共、萬一も慮外ヶ間敷事抔仕出候ては事六ヶ敷、所柄之迷惑ニも可
相成儀ニ候、且保養之為と申儀、譯も聞兼候ニ付、旁難叶段及達候事
右天明元年九月書願扣