津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■雑色草書(27)

2017-12-29 09:48:09 | 史料

一八〇
一舛改之役人相廻申筈付てハ、先達て御觸有之候、右付て       枡座
 此方様よりも、追々ハ御届ニ可相成候條、兼て用候舛之
 儀、書付差越候ハヽ、夫を以御届之儀可申段談、江戸詰
 石寺甚助より申來、松平越前守様より御届ニ相成候由之
 書付寫をも差越候、依之及返答候はゝ、舛之儀ハ寛文八
 年以来京舛用來、尤末々ニ至候ては、人ことにハ京舛求得
 不申候ニ付、御國中舛改之者被建置、大小京舛之寸法聊
 不違様相改、焼印を打せ、勿論焼印無之舛ハ、一切通用
 難成段被仰付置候、當時ハ熊本細工町播木屋茂左衛門と
 申者、改役被仰付置、一々相改、少々ニても寸法違候舛
 ハ直ニ崩せ京舛之寸法ニ造替候上、焼印を用、通用いた
 す事ニ候、御届ニも相成儀ニ候ハヽ、右之通を以、宜被
 申談段致返答候事
  但、戌十二月十日之書状ニて、翌亥正月廿四日之付紙
  ニて及返答候、尤御届ニ相成候哉、否之儀不相分候ニ
  付、同年八月ニ至り根取より江戸詰中嶋長作え尋遣候
  處、早速御留守居方え懸合ニは相成居候得とも、吟味
  等届かね、未御届等ニハ不相成様子ニ候段申來候事
 右安永八年江戸状扣
一右之節、御書所及吟味候處、左之通之書付達有之候
寛文八年三月
 公義御制法御書附之内
  公義より御定之舛之外、いにしへより其所ニ有來舛、
  其外いかようの舛を用來候哉、様子書付之可被差越候
  事
    「此御返答之御書付ハ、扣無御座候」
 同年四月六日、於御評定所岡田豊前守様、松浦猪右衛門
 様御口上ニて被仰渡候内
一江戸・京都之舛同前ニ候、其所ニ有之従公義御定ニ違候
 舛之様子書付、御勘定所え可被指上之事
 右之外、舛之儀付て、御書所御記録ニは相見不申由
一此許記録遂吟味候處左之通
    覚
一御國中今迄之舛を被成御改、當八月朔日より京舛ニ被仰
 付候事
一俵入實之儀ハ、京舛ニて三斗五升入ニ相究候事
一京舛之寫ハ、御作事所ニて出来申候間、来ル廿五日已後
 請被申候様ニ可被仰渡候
  寛文八年
    七月廿一日
 一筆申觸候、然ハ御國中今迄之舛を改、八月朔日より京
 舛ニ被仰付候通、先日相觸申候、然共新舛御國中行渡候
 程出来合不申候故、未請不申衆も有之、支可申候間、新
 舛所持不仕衆ハ、先前之舛を用、壹升ニ付六匁四才延之
 勘定ニて取遣仕候様被仰付候てハ、如何可有御座哉と、
 御家老中え相伺候ヘハ、新舛請不申衆ハ右之通沙汰仕可
 然段、此段相觸可申宗ニ付如此段、勿論新舛追々出来申
 候間、請可被申候、以上
  寛文八年
    七月廿八日
 一筆申觸候、今度京舛ニ御改被成候付て、免積り合點参
 兼候衆も可有御座様ニ存候、就夫免積別紙書付差越申候
 間、御組中えも可被仰觸候、恐々謹言
  寛文八年
   申九月十一日
    覚
現高千石
一高千石           前々之四ツ成
   釣懸物成五百四石
  京舛ニ〆四百七拾三石六斗八升四合貮勺壹才
    内
  拾三石七斗九升六合六勺三才    三ノ口
 殘四百五拾九石八斗八升七合五勺八才
        現高ニ四ツ五分九朱八厘八毛七、撫高                    当然ドルではなく「ず=なにもない」という意味らしいです。
        ニ同断
 以上
 一筆申觸候、然は、今度御作事所ニて被仰付候斗舛、五
 升舛出来申候、代銀御作事方ニ上納仕、請申筈ニ御座候
 間、則舛之直段書付遣候
 一斗舛壹ツニ付
   代銀拾匁三分
 一五升舛壹ツニ付
   代銀七匁六分 (ママ)
 右之通候間、可有其意得候、恐々謹言
   寛文八年
    申十月八日

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