紫英なる人物が内匠に宛てた書状である。三行目から数行、定彦についての人格に関わるような記述も見え、少々驚いている。
手許にある資料で「紫英」なる人物を見つけているが、系図などにも表れず難儀している。
この文面を読んでいると、これは定彦の父親である昭信(病気のため離縁し実家・宇土細川家に帰る)だと考えれば大いに辻褄があってくる。
あとは昭信=紫英であることを証明しなければならないが、至難の業ではある。
判読でき兼ねる文字を■表示したが、文章の大意は理解できるかと思っている。
此間の御御書付つぶさに披見致候 順養子
の事御尤ニハ存候得とも定彦事御見及
の通短才小智ニて殊更十ケ年以前の
大病後ハ幼年の時分と替りかんしやく
にて少シの事茂怒り強ク氣薄御座候而
中/\御用ニ立候処無覚束家来之取扱
家を納メる事決而なかるへき男ニて候間
他家江養子ニ遣候事ハ猶以家の恥辱
に毛相成可申哉と存上候 順養子事ハ断
ニ及ひ申候 守節院も存生の時其心ニ欠(かけ)
既ニ病中嘉門(三渕澄昭)方ゟ弥学をめし右之
養子之事存命之内相極候様被仰聞
申候間其許江男子両人(昭吉・昭昌)御座候て
定彦は年齢養子ニハ長ケ申候間人並
ニ茂生立候ハヽ養子ニと遣し可申と
御返言ニ及ひ申候 其時分直記(松井誠之)方而も
御書立前ニ而被成御聞之事ニ候此間御隠居様
よりも養子の事ハ先々月御書付被成
候得とも右之段々申上御断申上相濟申候
守節院様存生之時定彦ニも折々申聞
置十ケ年前より段々■後心得之事共
委敷書残し置候ニも其とてのことハ
萬々一御相談候ともかたく御断申上候様に
又成へき事ニて御座候て何卒宇土(定彦父昭信実家)の様に
御返し申上度と■■■■願ひ書残し
置候侭御■■■候而ハ定彦孝の道
難相立御座候其身も去年已來別而
其許の願ニ而此所ニ引移り昔之様ニ
の(ママ)心替も忘れ安■に老の心を延■
居申候 又々家の大そふとふ(騒動)を承り候半と
心をくるしめらしく其身に孝々と
ハ思ひ候て今度の事ハ何卒/\御止
給候へく候 家督も度々代替り候ヘハ先祖
よりの御譲りの知行も次第/\に減し
當時柄家来の扶持も弥難儀に相成
可申候旁御断申候それニ付■ニ扨置候ハ
家督を御譲り之心ニ而只今家々両人江
なり之分料を何卒只今通りに永く
定彦に御分ケ■■度候信記も定彦
順養子ニ成りし心ニ而屋川(やつ)かいなから右之通ニ
以多(いた)しくれら連(れ)候已後ニ子共両三人ハ
やしなひ大和守様(三渕藤英)ゟ之御血脈茂残り為
申候ハヽ其身にとり是にまさる孝々ハ
御座なく候 定彦ハ子のセ已も成兼候者ニ
御申候ヘハ家来中も順養子ニ相成血筋を
存候ハヽ其身無キ程ニも定彦に心を附
上の御ちじょくかつハ家の恥にならさる
やうに心を附候様に御■ニハ申付給御へ
く候 此事ハ去年以来ととのへ御家のミ
申置候と存立居候得とも次第/\に氣薄
其上手いたミ不叶の上に■■て難儀
に御座候 延引いたし屋ふ/\心の程
あらはし御返答旁書残し候事
あ那かしこ
四月三日 紫英
く川き(朽木)
内匠殿へ