津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■定彦殿のこと・1「朽木内匠書状」

2017-12-03 16:00:53 | 史料

 結果的には八代内匠が甥の定彦を順養子にするという考えは達成されなかったが、内匠の強い想いが吐露された当時の事情が記されている。
この文書は宛先が判らないが、家老米田家に関係する処から出たものであり、内匠の実父・松井営之の室が米田是福女・久美であることから、是福の孫の是睦に宛てたものではないかと推測している。
尚、後にご紹介する米田監物(是睦)書状の日付が文化十四年七月であり、共に「丑七月」の記述がありこの書状も同年の物かと思われる。

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                 定彦順養子仕候儀付御尋之趣
                 奉承知候 私方先祖之血脈幷
                 定彦順養子仕候儀は御書面之
                 通御座候 然処一昨年隠居ゟ
                 八代差上候紙面之内隠居抔
                 存命之内者只今通ニ而濟置候
                 様との書面ニ付其節思惟仕深ク
                 相考申候処養父母死後至り候
                 而ハ定彦を養子仕候方可
                 然奉存其節ハ養父母治定
                 仕候儀を再々應違背仕候
                 却孝道も難相立奉存先
                 多仲を相立候治定仕候段
                 八代も申上其分而閣候儀
                 御座候 何楚此節子細子座候而  
                 内決仕候儀ニ而無御座私儀ハ
                 其節ゟ死後至候儀御座候
                 隠居実意之處も定彦を相
                 立候方私存念處同意御座候を
                 内察仕候 兼而隠居抔存念茂
                 定彦儀脇々遣候得共私方ゟ何之
                 由緒も無御座向方ハ遣不申候
                 含相聞申候 私儀養子之
                 身分ニ而御座候得ハ旁定彦儀ハ
                 先祖之血脈と申乍恐
                 少将様ゟ之御續茂御座候         少将様=細川齊茲・定彦伯父
                 定彦儀御座候得ハ脇々江養子
                 参候処も前条之通之儀ニ而  
                 相應之向方御座候処も難
                 計左候得ハ往々浪人ニ而閣候も
                 於私ハ難ケ敷奉存候 且又
                 當春紫英病死仕候而ハ未
                 年若之定彦儀端近之所江
                 別居仕候を閣候而ハ外見も不宜
                 第一萬事届兼自然と
                 其身之自由も出来候様
                 相成候而ハ難相濟儀御座候 ■
                 養子仕候内決仕候定彦儀
                 御座候得ハ手近閣候而教育等も
                 仕度旁此節順養子之儀
                 取扱申候儀御座候■此節
                 子細御座候而内決仕候儀而ハ
                 無御座前条之通私儀
                 一昨年以来内決仕居候儀
                 御座候事
                一定彦儀順養子仕候儀ニ付而ハ
                 家来中存念之処も承届
                 置候儀ニ者御座候得共此節
                 御尋之趣ニ付猶又精々承
                 糺候処■申分等無御座候私
                 存念通ニ何レも相■得居申
                 候事
                一私妻妾母儀ハ一昨年以来之
                 儀私同様之存念ニ而■定彦を
                 此節順養子ニ相成候様有御
                 座度相願居申候儀ニ御座候
                 勿論各之通之存念ニ
                 御座候得ハ定彦養子相成候
                 而も昆乱■起候様無御座
                 以前多仲出生仕候砌も
                 定彦を相立候共ニ而ハ居御 
                 座候間敷哉を隠居ハ相伺
                 候程之儀ニ而■定彦相立候様
                 有御座度存念居申候事
                一定彦儀順養子ニ相成候而  
                 多仲儀ハ定彦養子ニ相成
                 往々双方出生仕候ハヽ順々ニ
                 養子ニ仕候筈ニ相極メ置候儀ニ
                 御座候且附々之者心得之
                 儀も此節■度定置候
                 儀ニ御座候事
                一定彦多仲交際早々
                 至而和順ニ御座候而萬事
                 心を附稽古事等之儀も
                 厚世話仕候事

                 右御尋之趣ニ付付紙而仕
                 御請申上候間委細之儀ハ
                 別紙ニ申上候通
                       御三所様ゟ
                 呉々宜被仰上候様奉願候
                 以上

                 丑ノ
                  七月    朽木内匠

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■熊本史学・内容細目(64~69号)

2017-12-03 08:17:21 | 史料

「熊本史學 第64-65合併号」

   1 肥前の国一宮河上社と在地領主層
   2 明治憲法体制と地方自治
   3 鎌倉幕府成立期における鎮西支配について
   4 県内寺社資料調査と今後の問題点
   5 肥後国南部における地域社と領主権力

「熊本史學 第66-67合併号」

   1 歴史の中の「天草・島原の乱」
   2 「天草・島原の乱」と大矢野
   3 天草とキリシタン
   4 ”島原・天草“をどう教えているか
   5 願成寺草創并に開山弘秀について
   6 『天道覚明論』の成立背景に関する歴史的考察 (一)
   7 肥後国鹿子木荘についての再検討
   8 菊池系図の実態について
   9 伊能忠敬の九州測量
   10 小国久住郡代日記 (四)

「熊本史學 第68-69合併号」内容細目

   1 「鹿子木荘事書」成立の背景
   2 荘園公領制の形成過程に関する一考察
   3 肥後細川藩における宝暦改革の農村政策
   4 『天道覚明論』の成立背景に関する歴史的考察 (二)
   5 永富相良氏の出自について
   6 受贈・交換雑誌目録
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■定彦さんにこだわって

2017-12-03 08:05:20 | オークション

 私は過去に、朽木家の定彦さんに関わる文書をヤフオクで四件ほど落札している。

定彦の父昭信(宇土細川家七代立禮・宗家に入り齊茲の末弟)は朽木家七代の養子となっていたが病身となって、八代目を継ぐことなく実家に戻っている。
それゆえ朽木家の八代は同じく養子の昭久(松井営之末子)が継いだ。昭信と昭久は共に七代・昭恒の娘聟である。
八代・昭久はその定彦を順養子にしようとしている。
ところが定彦は何故かこれを拒否している。私が入手した四通の文書が断片的にその経緯を伝えている。
結果定彦は細川刑部家の分家(七代興貞の弟・興度を初代とする)の二代目当主となっている。

          

過日ヤフオクに「八代朽木家取扱之扣写」という文書が出品され、私以外に応札者が現れず、無事落札することができた。
当初八代(やつしろ)に朽木家があるのかと思っていたが、入札前には「朽木家の八代目」にかんする文書だという確信に至った。
手許に届いた文書を見るとまさしくその通りである。
文中に「大和守様(三淵藤英‐細川藤孝実兄、初代昭貞はその二男)之血脈觀流院様(六代昭直)限り終漸女系之血脈定彦ニ残り居」という一文が垣間見えるが、細川宗家10代齊茲の甥である定彦を、嫡流として朽木家を継がせたいという昭久の思いが見て取れる。

保存状態が素晴らしい文書(135×200㎜ 30頁)で、これを読み解けば定彦問題は氷解するのではないかと考えているのだが・・・
大変な作業が残っている。

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