結果的には八代内匠が甥の定彦を順養子にするという考えは達成されなかったが、内匠の強い想いが吐露された当時の事情が記されている。
この文書は宛先が判らないが、家老米田家に関係する処から出たものであり、内匠の実父・松井営之の室が米田是福女・久美であることから、是福の孫の是睦に宛てたものではないかと推測している。
尚、後にご紹介する米田監物(是睦)書状の日付が文化十四年七月であり、共に「丑七月」の記述がありこの書状も同年の物かと思われる。
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定彦順養子ニ仕候儀ニ付御尋之趣
奉承知候 私方先祖之血脈幷
定彦順養子ニ仕候儀は御書面之
通ニ御座候 然処一昨年隠居ゟ
八代江差上候紙面之内ニ隠居抔
存命之内者只今通ニ而濟置候
様ニとの書面ニ付其節思惟仕深ク
相考申候処養父母死後ニ至り候
而ハ何ニ定彦を養子ニ仕候方可
然奉存其節ハ養父母治定
仕候儀を再々應違背仕候而者
却而孝道も難相立奉存先
多仲を相立候ニ治定仕候段
八代江も申上其分ニ而閣候儀ニ
御座候 何楚此節子細子座候而
内決仕候儀ニ而無御座私儀ハ
其節ゟ死後ニ至候儀ニ御座候
隠居実意之處も定彦を相
立候方私存念處同意ニ御座候を
内察仕候 兼而隠居抔存念茂
定彦儀脇々江遣候得共私方ゟ何之
由緒も無御座向方江ハ遣不申候
含ニ相聞申候 私儀養子之
身分ニ而御座候得ハ旁定彦儀ハ
先祖之血脈と申乍恐
少将様ゟ之御續茂御座候 少将様=細川齊茲・定彦伯父
定彦儀ニ御座候得ハ脇々江養子ニ
参候処も前条之通之儀ニ而
相應之向方茂御座候処も難
計左候得ハ往々浪人ニ而閣候も
於私ハ難ケ敷奉存候 且又
當春紫英病死仕候而ハ未
年若之定彦儀端近之所江
別居仕候を閣候而ハ外見も不宜
第一萬事届兼自然と
其身之自由も出来候様ニ
相成候而ハ難相濟儀ニ御座候 ■ニ
養子ニ仕候ニ内決仕候定彦儀ニ
御座候得ハ手近閣候而教育等も
仕度旁此節順養子之儀
取扱申候儀ニ御座候■此節
子細御座候而内決仕候儀ニ而ハ
無御座前条之通私儀者
一昨年以来内決仕居候儀ニ
御座候事
一定彦儀順養子ニ仕候儀ニ付而ハ
家来中存念之処も承届
置候儀ニ者御座候得共此節
御尋之趣ニ付猶又精々承
糺候処■申分等無御座候私
存念通ニ何レも相■得居申
候事
一私妻妾母儀ハ一昨年以来之
儀私同様之存念ニ而■定彦を
此節順養子ニ相成候様有御
座度相願居申候儀ニ御座候
勿論各之通之存念ニ
御座候得ハ定彦養子相成候
而も昆乱■起候様茂無御座
以前多仲出生仕候砌も
定彦を相立候共ニ而ハ居御
座候間敷哉を隠居江ハ相伺
候程之儀ニ而■定彦相立候様
有御座度存念ニ居申候事
一定彦儀順養子ニ相成候而
多仲儀ハ定彦養子ニ相成
往々双方出生仕候ハヽ順々ニ
養子ニ仕候筈ニ相極メ置候儀ニ
御座候且附々之者心得之
儀も此節■度定置候
儀ニ御座候事
一定彦多仲交際早々
至而和順ニ御座候而萬事
心を附稽古事等之儀も
厚世話仕候事
右御尋之趣ニ付付紙而仕
御請申上候間委細之儀ハ
別紙ニ申上候通
御三所様ゟ
呉々宜被仰上候様奉願候
以上
丑ノ
七月 朽木内匠