津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■街角散歩・・コンクリート打ち放しの建物

2018-11-09 12:00:35 | 建築

 天気予報通り日にちが変わるころ随分雨が降ったらしい。いつもの散歩時間は少々の小雨で、雨が上がった朝食後に変更して出かける。今日は少々目的があってデジカメ持参。
数日前いつもは歩かない路地に入り込み、打ち放しコンクリートの見事な建築物を見懸けて、改めて眺めてみようと思ったからだ。
現役は引退したものの、まだこんな気分になることがあって自らおどろかされるが、それに値する建築だった。

 ひそかに、著名な建築家の作品ではないかと思っているが、確かめようがない。
角地に立つこの建物は、ゆったりとした凹凸のある平面から豊かな表情を見せている。
表面が滑らかな打ち放しや、杉板の型枠を使った面、打ち放し面を斫り仕上げにした広い壁面、玄関廻りの天井はキーストン状になって陰影をつけている。
腰回りとそれに続く低い塀は色合いの違う数種の荒い土を、細い目地を微妙に波うたせて塗分けている。
象徴的な大壁の縦方向の先端部分は、巾30センチほどアルミ板がコの字状に使われ、道路に面する部分はアクリル板が嵌められて表情を変え、見事な演出である。
正面左側の壁にはチャコールグレイの10×30センチほどの羽根状のパネルが、水平方向に日除け状に数段配置されているが、別段大きな開口部があるわけでもなく余裕に満ちている。

個人の住宅だと思われるが、素晴らしいクライアントであり、良い設計者と施工者にめぐり逢われた。
100点満点の作品と表しておきたい。写真も数枚とったが、無断開示は当然避けておくことにする。

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■「山本勘助の孫」つづき

2018-11-09 09:24:49 | 色・いろいろ

 もう10年ほど前、このブログで「山本勘助の孫」をご紹介している。
出典の明らかな記事で、勘助の孫とされる下村已安(300石)については、その子伝蔵と共に次の様に記されている。
「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳軽輩末々共ニ」によると、「三斉様御附中津ニ相詰候衆」の中に、「弐百石・下村巳(ママ)安、百石・下村傳蔵」が認められる。肥後入国後の消息としては、肥後讀史総覧に掲載されている「八代分領侍帳 正保二年十二月」に、「下村伝蔵・弐百石」とある。
伝蔵の家禄に違いがあるのは、天草島原の乱での百石の加増によるものである。
そして「其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」という記録が残っている。

最近「近世大名の領国支配の構造」を精読しているうちに、「下村勘兵衛」なる人物の項目を見つけた。一領一疋・下村傳右衛門の先祖附が記載されており、これが山本勘助の血を引く子孫であることが判った。
已安を初代とし、2代伝蔵(後傳右衛門)・3代淳庵(初勘兵衛)・4代伝蔵・5代傳右衛門・6代勘兵衛(初伝太、平之允)・7代伝蔵(初傳太)そして8代勘三郎、9代伝之助は養子ながら脈々と山本勘助の血脈は阿蘇南郷の久木野(現・南阿蘇村)に続いていた。

 

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