津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お千様の書状

2018-11-30 08:56:21 | 歴史

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「慶長大名物語・日出藩主木下延俊の一年」を読んでいる。

これは二木謙一氏が翻刻された「木下延俊慶長十八年日(次)記」を題材とする同氏の著で、その解説書といったものである。
大坂の陣の前の年の日出藩主・木下延俊の一年間の行動を記した日記だが、本人ではなく右筆の手になるものである。
豊臣秀吉の正室・高台院の甥(兄・木下家定の三男)であり、長兄は木下長嘯子(勝俊)、同母兄弟に木下利房小早川秀秋がいる。

延俊の室は細川幽齋の女・加賀である。
忠興とは義兄弟であり、延俊の日出藩主としての取立等には忠興の尽力が大きかったし、日出城の建設などにも大いに力している。甥にあたる忠利とは随分仲が良かった。

さてこの著の中に、加賀の姉・千の書状が紹介されている。延俊が暑い盛りに体調を崩し、そんな中領國・豊後日出に帰国するという話を得て、彼の叔母(高台院姉)に当たる長慶院に対し、帰国を諫めてほしい旨の書状である。この書状は大阪城の天守に保管される書状であるとされ、二木氏は慶長十八年にも延俊が体調を崩していることから、この書状をこの年のものだろうと比定しておられる。

この千なる人は加賀の姉とされているが、妹だとするものもある。これは加賀の生年がはっきりしていないためである。
(加賀の生母は伊丹康勝女=加藤重徳妹だとされる。)

中院道勝が天皇の勅勘を蒙り、田邊に十九年の長きにわたり流刑された中で、幽齋の庇護を受けるとともに、幽齋の養女を娶り、子を為している。その子・長岡孝以にこの千が嫁いでいる。男子一人(細川藩士・嵯峨氏)を為したが孝以が21歳でなくなったため、細川家の家臣小笠原長良に再嫁している。
長良はガラシャ夫人に殉死した小笠原少齋の三男である。長兄が小笠原備前家・長光(5,000石)、次兄は切支丹として棄教をこばみ一族十数名と共に殺された与三郎長定である。

この手紙を慶長十八年のものと比定されているが、この時期延俊室の加賀はすでに亡く(慶長九年十二月没)、九年が経過しており、義姉として延俊の健康を気にしているのは尤もと思うが、延俊の叔母である長慶院にたいして書状を送ることが出来る状況が在ったのかを考え合わせると、私はこの年代の比定には少々首をかしげざるを得ない。
中院通勝の息・孝似室の時代であれば、幽齋の庇護の許京に住んでいた可能性は考えられ、長慶院の甥嫁の姉という事での交流は考えられようが、そうであれば時代は延俊室・加賀存命の時代までさかのぼるのではないか?

この書状はもともと秀頼の室・徳川千姫のものだと考えられていたのだという。
ある研究者が延俊の姉に千なる人物が居ることを知り、今ではそう理解されているらしい。
年代の比定が正しいとすると、私は案外、徳川千姫そのままではないかと思ったりしている。

孝以の生没年や千の再嫁の年などを知ることが不可能な中、推測の域を出ないものではあるが、二木氏の御説にいささかの異論をさしはさむものである。

コメント (3)
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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(24)

2018-11-30 06:56:33 | 史料

 五一〇
 天明五年正月公義御觸左之通
一切金・輕目金通用之儀、五分迄之切金、四厘迄之輕目金
 共無滞通用可致旨、幷両替屋ニても歩合不請取候様先年
 より度々相觸候處、文字金吹替之年數も相立、追々切金・
 輕目金多ク相成、通用差支ニも可相成候ニ付、於金座切
 金・輕目金相直候間、両替屋共え役金申付金座之為相渡
 候、右ニ付両替屋ニて切金・輕目金即刻引替又は両替致
 候節、切輕目之輕重ニ寄相應之歩合差出候様可候
 右之通可被相觸候、以上
松平陸奥守領分限通用之鍮錢、形チ撫角文字は仙臺通寶
 といたし、右於領内當年より五ヶ年之間鍮錢有之候、右
 は陸奥守領分限通用之筈ニ候處、若心得違外々ニて通用
 致し候もの有之候ハヽ、御領は最寄代官陣屋、私領之
 分は公事方御勘定奉行月番宅え可訴出候、隠置外より於
 相知は吟味之上急度可申付候、右之趣御領は御代官、私
 領は領主・地頭より可被相觸候、以上
  十一月

 五一一
 天明五年二月御達
一御一門・御家老・御中老中より之家來/\名前ニて被差
 出候諸書付之内、當時迄殿書を用被來候分は、以來は都
 て相當之様書を以可被相達旨御座候事

 五一二
 同年九月御觸左之通
一熊本内狼藉躰之者有之候由ニ付、右躰之者見逢候ハヽ搦
 可差出旨寶暦十一年二月相觸候處、近來又々御府内右躰
 之者致徘徊、法外之仕方も有之様子相聞候條、右之者見
 逢候ハヽ彌以先年相觸候書付寫別紙相添候様、此段觸之
 面々えも可被相達候、以上
  九月廿三日          奉行所

   寶暦十一年二月相觸候書付寫
 近來熊本内紛敷躰之者夜々致徘徊、狼藉等敷事も間々有
 之様子ニ候、定て烏亂者ニて可有之候條、御家中家來迄
 も心懸候様被申付、右躰之者見逢候ハヽ打倒し搦候て奉
 行所え加被差出候、假刀指たり共不及遠慮候
一御侍中は不及申、御家人或ハ家來/\ニ至迄、夜中なり
 共頭巾ニて頭面をかくし候躰有之候ては、烏亂躰之者押
 候節紛敷候條、右躰之かふり物仕間敷候
 右之趣久美々えも可有御沙汰候、以上

 五一三
 天明五年九月公義御觸
一中國・西國筋其外是迄無支配之盲僧は青蓮院宮御支配相
 成候ニ付、武家陪臣之忰盲人は盲僧ニ相成、右宮御支配
 ニ附候共、又は鍼治・導引・琴・三味線等いたし儉校之
 支配相成候とも、勝手次第たるへく候、百姓・町人之忰
 盲人ハ盲僧ニは不相成、鍼治・導引・琴・三味線等いた
 し儉校之支配ニ可相成候、若内分ニて寄親等いたし盲僧
 ニ相成候儀は決て不相成事ニ候、右之外百姓・町人之忰
 盲人ニて琴・三味線・鍼治・導引を以渡世不致、親之手
 前に罷在候のみ之者、幷武家え被抱主人之屋敷又は主人
 之在所え引越、他所之稼不致分は、安永申五年相觸候通
 制外たるへき事
 右之趣可相守旨不洩様可被相觸候

 五一四
 天明六年二月御達
一御曲輪中御家中屋敷/\門前、道並悪敷相成居候を手入
 無之其儘被差置候面々も有之由相聞候條、右躰之屋敷
 /\は當夏御入部前道造有之候様、尤手入相濟候ハヽ其
 段頭々より皆共迄被相達候様可及達旨、御用番被申聞候
 間、此段御同役え御通達、御組々えも可被成御達候、以上

 五一五
 天明六年公義御觸
一灰吹銀其外潰銀類、銀座幷下買之ものえ賣渡、銀道具下
 銀入用之者共銀座ニて買受、他所ニて賣買致間敷旨先達
 て相觸候處、猥ニ賣買致もの有之趣相聞不届候、先達て相
 觸候通急度相守、銀座幷下買之外他所ニて賣買致間敷候
一銀箔之儀、銀座より株札幷箔下かね相渡、於京都職人と
 も打立世上え賣出候處、他國ニて紛敷下かねを以銀箔打
 立候もの有之由相聞候、右は京都箔方職人之外、他所に
 おひて銀箔打立候儀は難成事ニ付、一切致間敷候
 右之通安永四未年相觸候處、近年又々猥ニ相成、灰吹銀・
 潰銀等銀座之外、他所ニて猥ニ賣買いたし、銀箔之儀も
 紛敷箔有之、別て尾州・濃州・勢州邊ニて銀箔隠打致シ
 候趣相聞不届ニ候、以來去ル未年相觸候趣急度相守、灰
 吹銀其外潰銀之類銀座之外堅賣買致さす、銀箔之儀は京
 都之外他所ニて打立候儀一切致間敷候、真鍮・赤箔之儀
 も京・大坂・伏見有來之外、他國ニて打立候儀致間敷、
 銀箔幷真鍮箔・赤箔ともニ夫々改方ニ御いて改之印いた
 し賣出候事ニ付、無印之箔類賣買致候もの有之におひて
 ハ可申出、夫ニ付此度江戸両替町え京都より之銀箔賣場
 一ヶ所相建候間、望之ものハ右賣場へ罷越買受、紛敷銀
 箔堅賣買致間敷候、若心得違灰吹銀之外銀具・潰銀之
 類、銀座幷下買之者へ不賣渡、紛敷箔於有之は銀座より
 も相糺申立候筈候間、賣候ものは勿論買取候もの、且銀
 箔・真鍮箔・赤箔共隠打いたし候もの等於有之は、遂吟
 味急度咎可申付者也
 右之通可被相觸候

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