細川忠利公の殉死者の中に、忠利公幼少のころの学友・田中意徳がいる。殉死時に六十三歳であったと記録されている。
綿考輯録・巻二十八は、田中意徳(以得)について次のように紹介する。
元来上方出生之者ニ而、いまた御家に不被召出幼少之節、妙解院様(忠利)於愛宕山御学文被遊候節(文禄三年五月愛宕山福寿院に
御登山、慶長三年二月御帰国被成候--吉山市右衛門家記)御一同ニ学文仕候処、昼夜御出精被遊、意徳儀段々心を付奉り御介抱仕上
申候、或時御側近被召寄、御出家可被遊旨御内意被成下候間、乍恐最三御留申上候、右之儀共後ニ御満足被為思召上、以後被任御心
候節は御知行をも被下、御懇ニ可被召仕之旨、度々御意被成下候、然共御互ニ幼年之儀故其後意徳は存懸も無御座候処、於豊前御代
に成早速意徳を上方より被召寄、御知行弐百石被為拝領候
又、殉死の記録としては次の様にある。
寛永十八年(1641)六月十九日 五人扶持廿石 六十三歳
於・坪井泰陽寺 介錯・加藤安太夫
跡式妻子に五人扶持家屋敷 忠利代豊前召出、忠利愛宕山学文の時に附らる
妻と女子が残された。しかしその家系は途絶えることなく、意徳の実弟・永野一閑(絵師・狩野甚右衛門)の嫡子・甚左衛門(初名・田中作丞)が継いだ。永野一閑は豊前中津で亡くなっているが、転び切支丹であり死後数代に渡って穿鑿されている。
妻子の其後が気になる処であるが、思いがけないところから意徳の女子の嫁ぎ先が判明した。
これは宝暦十三年に飽託郡御惣庄屋に召出された横手(右田)金兵衛の先祖附によるものである。
意徳については田中長太夫という名前で記されており、死亡時七十四歳ともある。
それによると意徳の追腹の際八歳であった娘が成人の後、右田又左衛門なる人に嫁いでいる。
この人物は綱利公代御書奉行などを勤めたと記されているが、侍帳ではその名前が確認されないところを見ると、御扶持蔵米取の身分であったのだろうか。又左衛門夫妻の子・又兵衛は父の病死後浪人し不勝手になり、老母(意徳女)を連れて浪々、八代高田の惣庄屋の世話を受けている。老母(意徳女)は元禄十七年(1704)に死去したというから、苦労の多い人生であったようだが、七十余歳の生涯であったことが判る。殉死者の残された家族の其後が判明するのは非常に珍しい例である。(資料・近世大名の領国支配構造)