四五三
安永二年七月御達
一町在之女夫婦之申分等ニ依て相對之離縁難叶節、御侍屋
敷え推参、身分之儀頼候得は、直ニ奉公人にして仕被申
候付、其夫御侍へ對仕仕方も無之、心外ニ存なから其分
ニ押移、年月を經候得は無是非致離縁候者も間々有之様
子ニ相聞候、右之通ニては下方風儀も不宜候間、以來右
躰之女致推参候ハヽ、其懸之御惣庄屋又は町別當ニ委ク
被申向、受取人差出候ハヽ直ニ可被相渡候、假令殺害之
難を遁來候者たり共、在町役人へ被相渡候上は聊示之儀
は有之間敷候ヘハ、銘々より救日申候同様之儀ニ付、若
又右ニ付町在之役人不埒之筋候ハヽ御奉行へ可被申達
候、尤男たり共右躰之申分ニて頼参候儀も稀ニは可有之
哉、其節ハ右同前ニ可被相心得候、以上
七月
四五四
安永二年貮朱判之事ニ付公義御觸
一貮朱判之儀、御年貢金其外諸向上納金之内へ取交候は勿 貮朱判→南鐐
論、皆貮朱判貮ても勝手次第上納可致候、尤世上通用之
儀彌以國々迄も斤と同様無滞可致通用候、勝両替切賃之
儀貮朱判両替屋より差出、同買受候節は、引替賃銀両替
屋へ受取可申事貮候處、心得違不同も有之趣相聞候間、
以來右引替賃銀時々双場貮朱判壹両ニ付賣上四分買上分
を限、格別不相應致間敷旨両替屋共へ申付候間、其分可
被相心得候、以上
四五五
同年游行上人巡御國達
一遊行上人明後十七日高瀬出立ニて、熊本宿坊阿彌陀寺へ 遊行上人
着之筈ニ付、御曲輪宿坊迄之道筋屋敷/\掃除等有之、
形儀桶は被出置ニ不及趣夫々相觸候様、受場廻之足輕え
及達候、此段為御存知申達候、道筋之書附左之通
出京町口より本町筋、京町氏家仁左衛門屋敷前、新堀 遊行上人府中入り順路
御門、長岡助右衛門殿屋敷下御門、田中典儀屋敷前よ
り冠木御門、小笠原備前屋敷前、法花坂より一丁目前、 冠木御門→住江御門か
三丁目御門より細工町筋、阿彌陀寺へ参着之筈ニ候
以上
四五六
同年
一増奉公人之儀、六月以後暇を出シ被申候分は、跡柄相渡
不申筈候段去年及達候得共、向後は六月以後たり共、以
前之通跡柄相渡申筈ニ候事
四五七
安永二年御達
一近來面躰を隠し候頭巾を拵、途中ニてかふり候者數多有
之、奉行所より尋者ニ紛敷候間、前々より有來候頭巾之
外一切かふり申間敷旨、寛保三年従公義御觸之趣相觸置、
猶寶暦十一年ニも右躰之かふり物仕間敷旨相達置候處、
頃年猥敷烏亂者紛敷候條、彌以、以來面をかくし候かふ
り物堅仕間敷候、右之通ニ付、若違犯之輩は御侍たり共
姓名承届相達候様及達候條、家來/\ニ至迄屹ト可被申
付候、以上
十二月
四五八
安永三年人馬賃増方之儀ニ付御達
一御領内宿駅人馬賃錢之儀、公邊え御窺被遊先規之通本馬
一疋壹里三拾貮銅、人足壹人一里拾六銅ひ仰付候、尤來
月朔日より右御定之通被仰付候間、奉得其意末々迄堅奉
承知候様可被相心得候、依之右御窺之通御書付左之通
一私領内駅馬人馬賃之儀、享保之比銀壹匁錢双場八拾銅 享保・原文、銀対錢相場
ニて通用仕候時分、本馬壹疋ニ付壹里三拾貮銅、人足
壹人ニ付一里十六銅ニて致継合、右人馬賃三拾貮銅は
四分、十六銅は貮分と數年來唱來候内、元文之比より
壹匁之銀七拾銅之双場を以致通用候得共、此以後も銀
目之積にて四分貮分と唱來候故、人馬賃ともニ三拾貮
銅は貮拾八銅、十六銅は十四銅ニ相減、尤坂有之所は増
賃も右之割合ニて受取來候由、其節右之儀可相糺處、
下役人共無心付、人馬賃錢相減、宿駅之者共難儀仕候
段申立候、依之西國・中國筋人馬賃之儀為承候處、私
双場ニ不拘、本馬壹疋三拾貮銅、人足壹人十六銅之積
ニ相定候様仕度候、尤西國筋駅々同様之賃錢ニ罷成候
儀故、往來之旅人之難儀と申筋も有御座間敷候間、先
規之通可申付哉、此段奉伺候、以上
四月十日 御名
[付札]「何之通人馬賃錢増可被申付候」
四五九
安永三年七月貮朱判之儀御觸
一貮朱判いまた京・大坂えも不行渡、為替等も難取組、江 貮朱判→南鐐
戸表諸問屋より彼地問屋え拂等も差支候様相聞候間、猶
又貮朱判吹高を相増、月々銀座より大坂御金蔵え差登せ、
於京・大坂も通用有之筈ニ候間、諸問屋拂は勿論、為替
等金と同様無指支取組、彌無滞通用可致候、右之通町々
え相觸候間、其旨相心得無滞通用可致候、以上
七月