津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■坂本龍馬の死と上田久兵衛

2019-03-10 09:47:53 | 歴史

 高祖父上田久兵衛の生きざまに就いては、2002年(平成14年)発刊の「幕末京都の政局と朝廷 肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た」(名著刊行会・宮地正人編)によって幕末史の研究者の間でも知られるところとなったようだ。
                     前表紙
その先駆となったのは、昭和3年発刊の「肥後藩士・上田久兵衛先生略傳幷年譜 全」(熊本地歴研究會・鈴木 登編)である。
又、この編者・鈴木登先生のご子息・鈴木喬先生がご父君の跡を継ぐように、いろいろな文章を発表されている。

              ・悲劇の偉材ー上田 休(人物郷土史・3 熊本)
              ・日記に見る時習館学生の日常生活
              ・部屋住藩士の日記を覗く(熊本史学 第83・84合併号)
              ・部屋住藩士の長崎・天草視察旅行記(熊本歴史学研究会・史叢 第九号)
              ・幕末の「八代遊記」(八代史談会・夜豆志呂 148号)
              ・若き藩士の一年(熊本歴史学研究会・史叢 第十号)
              ・幕末肥後藩の学徒出陣(熊本史学 第87・88合併号)

 このような編著作の刊行やその他の論考などにより、無念の死を遂げた久兵衛の生きざまを理解することが出来、諸先生に対し対し深甚なる敬意を表する処である。
「幕末京都の政局と朝廷」では取り上げられてはいないが、「略傳幷年譜」では坂本龍馬の死に関する記述がある。
今後このことを大いに論議をしていただきたいと考えているが、「慶長三年十二月四日」(コマ番号78参照)付、「日録」から引用した次の記事である。

      土州嘗て上田に国事を託す
      「夜有中山書報儲駕登上京之儀、及坂下(本)龍馬逢暗殺、後藤象二郎走免之事、
       葢刺龍馬者土州人也、余於是疑念氷散、抑余之在京之日、容堂公窃令其大夫森下又平、
       託余以其國事、其議論吻合、今日土州之論 與前日相鉾楯、初知皆此輩之要之者也」

 久兵衛に死罪を申し渡したのは、あの江藤新平にも死刑を宣告した河野敏鎌である。敏鎌にとって新平は師と仰ぐ人物であった。
敏鎌は大久保利通の下にあり、その指示による死の宣告であったのか・・窺い知ることはできない。
久兵衛の死も又、坂本龍馬暗殺者について情報を知りうる人物として新政府としては葬り去るべき人物として認識されたのではないかとの考え方がある。
浅学菲才の身としては、多いに含みがあると思われる上記日録の該当記事の内容さえその大意を理解しえない。
司馬遼太郎により作り上げられた龍馬像は、昨今「藤岡屋日記」や「莠草年録」により「薩摩藩の内応者」という認識が為されている。
高祖父・上田久兵衛が書き残したこの一文が意味するものは何か、議論が深まることを願っている。
鈴木喬先生ご存命の時、もっと委しくお話を伺っておくべきだったと、残念至極に思っている。

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■「市井雑式草書附録」(26)

2019-03-10 07:22:50 | 史料

      十六

 一九一 文化十年閏十一月
一別當役在勤中、町並商賣方之儀代人を立、取計せ申度由
 松田甚十郎列如願被差免候事

 一九二 同年十二月
一惣月行司之儀、六月八月之両付は懸り/\廻持ニ相勤候 
 處、少人數之懸りハ輪番繁ク多人數之懸りニ見合候ヘハ
 不對ニ有之候間、以來は職人町を省、人別順番ニ相勤候
 様、尤父子兄妹等同居之面々は一順ニ立置候様及達候事

 一九三 同十二年三月
一町家之者掛人數ニ至迄、以來病死・出生之届いたし候様
 との事、住所ニ掛り候部ニ有之候事

 一九四 文政元年十二月
一吉井才平澤町並之壁ニ歟、牛馬繋へからすと申札を張置
 候由、ヶ様ニすへからすと申辭は上より命令之外、容易
 ニ調申間敷事之様ニ被存候段、御役方之衆より内々噂有
 之、若右之通之札面ニ候ハヽ、此所ニ牛馬つなく事無用
 なとと認替ニ相成可然哉と分司より及内意候事

 一九五 同三年五月
      句読点間違
一當八月惣月行、司森繁左衛門諸持名前相達候處、當七月
 今京町盆後踊點前之由ニて、繁左衛門儀、夫々手數等心
 配いたし置候由、右踊之儀は町内一統之事ニて、始末之
 手數は八月ニ懸り候儀ニて、引續八月惣月行司受持之儀、
 何分難任心底段願出之趣無餘儀様子相聞候間、及御僉議、
 此節は振替被仰付候間、八月惣月行司名前繰替相達候様 
 及達候事

 一九六 文政三年六月
一御國中舛改之儀ニ付、斎藤茂左衛門より願出差出候處、
 御郡中廻在等之儀は見合無之難叶候、尤數年古舛改と申
 儀無之、ふち摺等之舛多、自然と不正之舛ニ相成居候由、
 書面之通候へハ其分ニて火差置候ては難相濟儀ニ付、右
 躰之舛は早々改ニ差出候様、五ヶ町一統被及御達候間、
 改持越候ハヽ其節々寸法等相改、焼印を用相渡候様、尤
 酒屋ニ相用候塗舛は被差留候様との儀有之候得とも、改
 方子細も無之候ハヽ、先其分ニ被閣旨及達候事

 一九七 文政四年十月
 [朱書]「八代町平田三郎兵衛舛改被仰付、八代・葦北二郡は同人よ
      り相改候、発端等キンミノ趣弘化二年四ヶ町扣ニキ六アリ」                                     下段カナ文字部分の「キンミノ趣」は「吟味の趣」か?
一御國中舛改所之儀、熊本細工町齋藤茂左衛門、八代は二             「扣ニキ六アリ」は「扣に記録有」
 ノ町平田三郎兵衛二被仰付、極印を打致通用筈の處、先
 年改二成候舛も不知摺等二て、自然と不正之舛ニ相成居
 候も有之哉ニ相聞候付、新規之舛は勿論是迄用來候舛も
 ふち摺又は極印分兼候分は改所え持出、極印受置候様、
 去年六月町中一統及達置候處、其以後改ニ差出候ものも
 無之、今以紛敷舛取扱候者有之様子相聞、不届之至候條
 早々改所え差出、極印を受可申候、依之此以後萬一紛敷
 舛を以致商賣候もの有之候ハヽ、安永五年及達置候通、
 廻役見逢次第丁所名前承糺、其舛を取揚、最寄之町家え
 預置相達候様猶及達候間、彌以心得違無之様、五ヶ所町
 平御郡代えも及達候事

 一九八 文政七年八月
一町在之者賣藥之儀ニ付不審之筋有之節は、再春館え呼出
 問合有之筈ニ付、其節々醫業吟味役より御郡代・町御奉
 行え可被申達候間、無支様被差出候様及達候事

 一九九 同九年十一月
一町家之者心得違無之様、兼々各以下町役人中より教諭を
 加候由ニは候得共、末々之者ニ至候ては只管御難題を引
 起、就中倫理之間之事等心得違多、於風俗難相濟事ニ候、
 然處先年來新三丁目懸りニおゐてハ、御家人田中貞之允
 え河島平三郎申談ニて、末方之者抔耳近キ書籍之講釋を
 頼、且近年一統ニ相渡置候教諭書をも懇ニ讀聞せ、彼是
 風俗を誘候段相聞、至極尤之存寄に付、今度御僉議之趣
 有之、町中一統右講釋取行候様被仰付候間、委細平三郎
 申談、右貞之允を頼、於懸々新三丁目同様、便利能取計
 候様、尤小前/\之者ニ至候ては日々渡世筋之心懸肝要
 ニ付、右躰之障ニ不相成様、萬端程能取計、一ヶ月一夕
 宛位ニ取行候方可然、且講釋之節は町方御横目廻勤之催
 寄次第出席有之筈之段、別當之内呼出書付相渡候事

 二〇〇 文政九年十二月
一耇姫様御遠去被成、穏便中二付、町中餅搗方之儀、惣月
 司より伺出候付、町家餅を搗候儀は御構無之段及達候事
         
     菩提寺泰勝寺の齊茲公のお墓に寄り添うように耇姫のお墓がある。


 二〇一 御國中馬數之事
一五拾疋  熊本町   一拾六疋  川尻町
   外ニ四拾八疋自分馬         外ニ四疋自分馬
一拾疋   高瀬町   一五疋   高橋町
   外ニ拾九疋自分馬          外ニ拾疋自分馬
一拾四疋  八代町

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