高祖父上田久兵衛の生きざまに就いては、2002年(平成14年)発刊の「幕末京都の政局と朝廷 肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た」(名著刊行会・宮地正人編)によって幕末史の研究者の間でも知られるところとなったようだ。
その先駆となったのは、昭和3年発刊の「肥後藩士・上田久兵衛先生略傳幷年譜 全」(熊本地歴研究會・鈴木 登編)である。
又、この編者・鈴木登先生のご子息・鈴木喬先生がご父君の跡を継ぐように、いろいろな文章を発表されている。
・悲劇の偉材ー上田 休(人物郷土史・3 熊本)
・日記に見る時習館学生の日常生活
・部屋住藩士の日記を覗く(熊本史学 第83・84合併号)
・部屋住藩士の長崎・天草視察旅行記(熊本歴史学研究会・史叢 第九号)
・幕末の「八代遊記」(八代史談会・夜豆志呂 148号)
・若き藩士の一年(熊本歴史学研究会・史叢 第十号)
・幕末肥後藩の学徒出陣(熊本史学 第87・88合併号)
このような編著作の刊行やその他の論考などにより、無念の死を遂げた久兵衛の生きざまを理解することが出来、諸先生に対し対し深甚なる敬意を表する処である。
「幕末京都の政局と朝廷」では取り上げられてはいないが、「略傳幷年譜」では坂本龍馬の死に関する記述がある。
今後このことを大いに論議をしていただきたいと考えているが、「慶長三年十二月四日」(コマ番号78参照)付、「日録」から引用した次の記事である。
土州嘗て上田に国事を託す
「夜有中山書報儲駕登上京之儀、及坂下(本)龍馬逢暗殺、後藤象二郎走免之事、
葢刺龍馬者土州人也、余於是疑念氷散、抑余之在京之日、容堂公窃令其大夫森下又平、
託余以其國事、其議論吻合、今日土州之論 與前日相鉾楯、初知皆此輩之要之者也」
久兵衛に死罪を申し渡したのは、あの江藤新平にも死刑を宣告した河野敏鎌である。敏鎌にとって新平は師と仰ぐ人物であった。
敏鎌は大久保利通の下にあり、その指示による死の宣告であったのか・・窺い知ることはできない。
久兵衛の死も又、坂本龍馬暗殺者について情報を知りうる人物として新政府としては葬り去るべき人物として認識されたのではないかとの考え方がある。
浅学菲才の身としては、多いに含みがあると思われる上記日録の該当記事の内容さえその大意を理解しえない。
司馬遼太郎により作り上げられた龍馬像は、昨今「藤岡屋日記」や「莠草年録」により「薩摩藩の内応者」という認識が為されている。
高祖父・上田久兵衛が書き残したこの一文が意味するものは何か、議論が深まることを願っている。
鈴木喬先生ご存命の時、もっと委しくお話を伺っておくべきだったと、残念至極に思っている。