津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ただいま読書中

2019-03-30 19:19:53 | 書籍・読書

                          

 「永源師壇紀年録」をご紹介していく中で、わからない文言や人名がわからずに往生している。
これは別に勉強が必要だと思い、この本を所蔵していることを思い出し段ボールや押し入れの中の棚を探し回ってようやく見つけ出した。
巻末の「足利義満略年表」が大いに助かる。今日一日でとは参らぬが、明日いっぱいでは何とか読了することだろう。
折角だから斜め読みは避けて読んでいるから仕方がない。
どうも世の中の人たちは、細川藤孝が裏切って信長についたように理解されているようだが、これは真逆の解釈であろう。
「細川フアン」の私としては、なんとも遺憾というほかない。
藤孝もまた将軍義輝のDNAを継承する足利氏である。

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■永源師檀紀年録・巻之四(6)

2019-03-30 06:05:30 | 史料

〇同年十月十六日藤孝ノ信長ニ謂テ曰ク、青竜寺ハ吾カ祖父以来相伝ノ所ナリ、然ル二近年君ニ奉シテ他国ニ
 在リ、軍務ニ暇無シテ此ニ及フ事遺恨也、某カ一勢ヲ以テ此ヲ攻ント、信長ノ曰ク、其兵数如何ン、答フ三
 百ニハ足ラザランカ、信長ノ曰、兵少シ我カ兵ヲ加フ可シト、藤孝辞謝ス、光秀曰ク、公ノ旗本勢ニモ及マ
 ジ、吾レ五百ノ兵ヲ以テ後援セント、藤孝ノ光秀ニ答曰ク、自身ノ出馬ニモ及ハジト、依テ光秀ノ家士三宅
 藤兵衛ニ百五十騎帥ヒサセテ後援ト為サシム、藤孝ノ兵百廿騎ヲ以テ岩成ト桂川ノ西ニ戦フ、藤孝川ヲ踰テ
 兵士ヲ指呼シテ力戦ス、岩成カ兵靡ケテ城ヱ引入ントスルヲ附ケ入ル、岩成カ心ハ山ヲモ抜ント欲スレトモ
 士卒逃ケ足ニナレハ力ナク南一方ヲ破テ遁ル、番頭大炊助義之コモル所ノ淀城ニ入テ勢ヲ合ス、此ニ於テ細    青龍寺奪還す
                           (吉)
 川家ヨリ青龍寺ニ入レ代リ、老臣齊藤元實和州元右ノ子也及ヒ有由ヲ番代ト為ス、同廿一日平明ニ屋形青龍寺ヲ進
 初シテ淀ヲ囲ム、此行松井康之ノ家人下津権内吉辰岩成ト相抱テ橋下ニ堕ス、権内能ク水ニ浮沈シテ遂ニ    権内、岩成友通を討つ
 岩成ヲ刺シテ首級ヲ獲タリ。廿三日吉辰ヲシテ岩成カ首級ヲ持シテ信長ニ献セシム、信長大ニ賞シテ感書及
 ヒ黄金百両ヲ吉辰ニ授ク。次ノ日大炊介は細川右馬頭殿ニ託シテ降ヲ乞ヒ、城ヲ開テ遁レ去ル。屋形宥恕シ
 テ城ヲ受取リ、家臣江村秀盛ヲ番代トシテ此ニ居ク、因テ岐阜家ヨリ感帖ヲ屋形ニ授ケ不曰ノ大功ヲ賞シ、    岐阜家→織田家、以下同
 義昭公ニ白シテ屋形ヲシテ再ヒ青龍寺ニ還住セシムル事如元也。
〇同年十月廿八日義昭公将軍宣下也、本国寺ヲ営トス、尋ヒテ大樹ヨリ屋形及ヒ和田伊州惟政ヲ使節トシテ早    足利義昭将軍宣下
 速ノ大功ヲ荷フノ感賞帖ヲ岐阜家ニ授ケラル。此年屋形第三女ヲ青龍寺ニ生ム、伊也媛ト名ク。         伊也→一色義有室、後吉田兼治再嫁
 信長重テ将軍ニ白シテ判断シテ三淵大和守藤英ヲシテ淀城ニ居キ、渡邊宮内少輔長及ヒ磯貝新衛門久次ヲシ    細川藤孝実兄
 テ一乗寺ニ居ラシメ、山本対馬守和之・細川右馬頭ヲシテ静原ニ居キ、内藤備前守忠政ヲシテ亀山ニ居シム。   典厩家・細川藤賢
 本国寺の東方ハ明智光秀、西方ハ羽柴秀吉ニ警固セシム。村井長門守ヲシテ諸司代トス。京都総衛護ノ士五
(千カ)
 □三百余騎也、岐阜家又曰ク、吾レ本国ニ帰ル可シ、然ラハ寃敵隙ニ乗シテ襲ヒ来ンカ、然ラハ各自ニ急ニ
 馳テ諸将ニモ柳営ノ危ヲ救ヘト下知セラル。
〇同十二年正月五日三好・松永ノ党三宅・茨木・河州・若江等ノ城ヲ発シテ本国寺ノ柳営ヲ囲ム、三淵藤英・
 上野清信防戦ス、洛中ノ諸寺院来テ明日ハ必ス遷座アラシメント、強テ侘テ囲ヲ解カシム、柳営ハ七條ノ道
 場ニ遷ル、青龍寺ノ屋形急ヲ聞テ曰ク、柳営ノ西ニ向ハン敵ヲ吾レ此ニ居テ争カ外ニ見ンヤ、敵定テ当城ヲ
 押テ京ヱモ至ルラン、然ラハ敵ヲ半途ニ遮テ破ラン迚テ、二百余騎ヲ帥テ桂川ノ西ヨリ嵐山ノ南ヱ推出シテ
                                ママ
 屯ス、三好城州入道・番頭大炊介・岩成カ徒等六千余騎、淀山崎ヲ経千ニ進テ此ニ至ル、屋形ノ兵士進テ戦
 ヲ交ユ、屋形ノ曰ク、吾カ兵ヲ他ニ較ブレハ九牛ノ一毛ナリ、唯戦死セヨト下知シテ自ラ鎗ヲ拈シテ敵ニ当
 ル、譜代ノ家臣此ヲ見テ死地ニ入テ堅ヲ破リ利ヲ砕クカ故ニ敵紛乱シテ山崎ヱ引キ退ク、屋形兵士ニ下知シ
 テ兵ヲ屯シ軍使ヲ馳テ京東ノ戦利ヲ問フニ、共ニ勝利アリトナン、羽柴秀吉ハ一千余騎ヲ率キ桂川ノ西ヱ進
 ンテ屋形ニ後援セントナリ、大手ハ明智光秀大ニ利ヲ獲テ敵ノ兵将薬師寺ヲ初メ数多ノ首級ヲ得リ、是ヲ以
 テ敵八幡ヱ退散シテ重テ一戦ト議ス、岐阜家ハ一万ノ兵ヲ帥テ上洛ス、此ノ外丹波・若狭・近江ノ諸将駢集
 テ降スト言へトモ、先君ノ□(怨)家トシテ我ニ降スル者ハ何ソ許サンヤ、ト云テ屋形點頭ナキニ依テ岐阜
 家モ此レニ応シテ三條河原ニ於テ刎硜ス。此ノ行ヤ柳営ヨリ屋形ニ授ル賞帖ニ曰
   昨日兇徒等入洛ノ処、以手人数被追拂、剰首三到来感悦不浅、為褒紋桐引両免之候、恐々謹言 正月六
   日 屋形名 大樹花押
〇同年春岐阜家ハ明智・羽柴ニ議シテ二條大宮ニ新城ヲ築カシム、光秀コレヲ縄ハリス。同二月十一日鍬初メ、    
足利義昭の二条城 
 七月十二日ヲ以テ柳営ヲ新城ヱ移ス。三好等ハ大阪ノ顕如ニ会盟シテ摂州ニ蜂起ス、大樹此ヲ征伐ス、屋形
 又岐阜家ニ従軍シテ枚方ヲ征伐ス、岐阜家利ナシ、仍テ佐久間信盛ヲシテ陣ヲ大坂ニ張ラシメテ岐阜家ハ上
 洛ス。屋形ハ岐阜家ノ命ヲ承テ枚方ヲ退テ尼ケ崎辺諸所ノ城地ヲ巡見ス、八月松永父子ヲ諭シテ岐阜家ヱ降
 セシム。                      
                     参考:藤戸石(二条新城建設にあたり細川典厩家の藤戸石が運び込まれた)
                    ◆かくれなき藤戸石を。上京細川殿屋敷より室町畠山様御屋敷へ信長公(三宝殿)御引なさるゝ
                    ◆細川右馬頭庭之藤戸石、織弾(信長)三・四千人にて、笛鼓にて囃之、勘解由小路室町迄、日暮之間、

                     御堀之内へハ不入云々、見物了、驚目者也
                    ◆御庭には、東山慈照院殿秘藏し給ひし九山八海といへる大石、細川が館に居たりし藤戸といへる名石
                     を始め、國々の奇樹怪石を盡し、

 

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